今週末に発売の『表現者クライテリオン』3月号に、フェミニストの柴田英里さんとの対談「「議論しないフェミニズム」はどこへ向かうのか?」の後編が載っています!

今回も盛り沢山ですが、特に注目なのは、柴田さんに美術家としての哲学を伺うなかで――

柴田:アイデンティティを構築する上では排除の段階が必要不可欠だと思っていて、「自分は男ではないから女だ」というように、何かを排除しなければカテゴリー化はできないですよね。 そうすると必然的に、自分のアイデンティティを獲得する際に何かを排除することは差別なのかという疑問……が出てきます。

(中 略)

與那覇:……そう捉えるセンスがあれば、ダークサイドの一切ない「クリーンな社会や人間」を作ろうとする思考からは、本能的に距離が取れる。炎上を招く「問題芸術」は展示を禁じろといったキャンセルカルチャーに、抵抗する基盤にもなりえます。 『平成史』(文藝春秋)でも引きましたが、僕はヴィスコンティのLGBT映画とも言える『地獄に堕ちた勇者ども』(1969年)について、自決直前の三島由紀夫が書いた讃辞が好きなんです。ナチズムを「告発する」という口実を設けつつ、実際には見る者自身の中にある退廃や悪徳への欲求を、擬似体験を通じて発散する。 三島はそうした悪しきものとの付き合い方が、人が健全でいるためには不可欠だと唱えましたが、近いものを感じました。