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ジュリア・クリステヴァが唱えた「アブジェクション」(おぞましさの棄却)の概念をめぐる議論ですが、アートに限らず、いま世界の深刻な課題ってぜーんぶ、これが関わっているんですな。

たとえば普通に考えて、テロリストはおぞましい。でも、その巣窟だから「ガザなんてアブジェクト(棄却)しろ」、それでしか平和な秩序は守れない! と言われたら、「えぇっ?」となる。

プーチンのウクライナ侵略も、同じようにおぞましい。なので「棄却! 棄却!」と叫ぶことが自由世界の一員としてのアイデンティティになるけど、そのままどっぷりハマってしまうと、実際には棄却できない現実を受け入れられずに、本人がおぞましい永久戦争屋さんになってしまう。

24年11月の時点で 「殲滅を目指す」んですって。 当時の戦況はこちら(BBC)

生理的にダメ、みたいな言い方があるけど、なにかを「おぞましく」感じて、自分はそうじゃないぞと思うこと自体は人間の条件だ。ところがその勢いで「おぞましさゼロの世界」をめざすと、いつしか自分こそ、忌避する対象に似通ってくる。

かつてあった「悪しき社会」の痕跡を抹消して、意識高くキラキラした「理想社会」を作ろうとすると、かえってスターリン時代にそっくりな「検閲社会」ができてしまう。そんなポリティカル・コレクトネスの逆説は、前にも紹介してきた。

しかし、どうして人間は「自分でないもの」を排除してしまうのか。棄却の行き過ぎがもたらすバックラッシュ(反動)を回避して、「おぞましさ」と適切につきあうには、どうすればいいのか。