メディアの売上だけで生きるか死ぬかの状況だったら、おそらくもっと「徹底的に先鋭化して煽りまくる」メディアになってたと思うんだけど、そうなってない事の意味・・・みたいなのが一応はあった、と言えるんじゃないかと。
ここまでは「中公新書とか出してる出版社」という「オールドメディアの中でもオールドメディア」みたいな感じの話でしたけど、最近ちょいちょいテレビとか出るようになって思うんですが、(ワイドショー以外の)民放テレビの討論番組とかは、結構「似たような良識」を良くも悪くも持っている面があると思います。
そういう論調は過去20年のグローバルな流行のモードからすると「中途半端」すぎるので、右の人は「テレビは左に乗っ取られてる」といつも言ってるし左の人は「テレビは右に乗っ取られてる」っていつも言ってるというような笑える状況になってたわけですけど(笑)
こういう感じで↑両側から批判されてる事自体が、ある種の「中道的良識」を担保する機能を一応は果たしていた事の証明ですらあると思います。
3. とはいえ、「最大公約数」で誤魔化し続けるのも限界
とはいえ、この「最大公約数」的に誤魔化した言論を続けることの限界みたいなものも露呈してきていて、そうやってナアナアにし続けることで、人口減少だとか社会保障制度の持続可能性とか、その他色んな新しい産業への時代に応じた対応とか、そういう事を適宜一個一個具体的に議論して共有していく回路が「ボヤケ」させられて、それでノロノロと無策のまま惰性で進むみたいな事でいいのか?という不満が高まってきている。
個別具体的な課題を紐解かずに、
「(細かい話はよくわかってないしどうでもいいですけど)とにかく自民党はけしからんですね!」
…みたいなことを言ってオザナリに皆を納得させるみたいなのも、さすがに限界来てますよね。
ただ、「そういうのじゃダメだよね」という機運は日本のオールドメディアの「中の人」も結構思ってる人は増えている実感はあって、今は「新しいやり方」も模索が始まってる最中であると個人的には感じています。