ある日、私と後藤さんは教団本部で打ち合わせをした。それぞれの考えを率直に語り合った後、後藤さんが建物の上階にある祈祷室へ案内してくれた。淡々と静かに語られた家族への心情に対して、私は「キッチンにある刃物を使えたかもしれないのに、家族を半死半生にしてでも脱出しようとしなかったのですよね」と、質問というには曖昧な相槌を打った。
刃傷沙汰を起こしたとしても容易に脱出できない状態だったが、ここまで理不尽極まる扱いを受けたら多くの人は理性を保てなかっただろう。後藤さんを誹謗する人たちは、だから監禁ではなく自らが選んだ引きこもり状態だったと言う。しかし、祈祷室での後藤さんの説得力を目の当たりにして、私は胸を張って校了へ向けた作業ができると確信した。そして同じ状況を経験していない私は、まず謙虚に知るところから始めなくてはならないと改めて痛感した。後藤さんから無知の知を思い知らされたのは、これが初めてではなかった。
ぜひ 『死闘 監禁4536日からの生還』を読んでもらいたいのは、拉致監禁について、強制棄教について、旧統一教会について、信者についての疑問を氷解させる好著だからだけではない。
後藤さんの信仰は珍しいものかもしれず、洗脳されているとひどい言い草の人もいるが、不条理と暴力に翻弄されてもなお、家族が敵になってもなお、命の危機に瀕してもなお、人として失ってはならないものを守り続けていた事実はあまりにも重い。この重みに、触れていただきたい。
これが後藤徹さんという人生の形だ。あまりに途方もない存在と出来事に触れ、茫然となるのは悪いものではない。
編集部より:この記事は加藤文宏氏のnote 2025年2月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は加藤文宏氏のnoteをご覧ください。