また私は読者になったつもりで、後藤さんの感覚がどこまで客観的か確かめた。後藤さんは4536日ぶりに解放され餓死寸前の体で荻窪から松濤まで歩いたが、私も原稿に書いてある通り監禁場所だったマンションを起点として教団本部を目指した。踏破したのは真冬の夜ではなく猛暑の日盛りだったが、後藤さんが書いた事実関係が正しいだけでなく、心理の叙述まで冷静なのを知って驚いた。

信者ではない人々に対しての客観性や普遍性を自伝に与えるのが私の仕事だろうと心に決めていたので、後藤さんには内緒で荻窪・松濤ルートだけでなく第一監禁場所のホテルや拉致されて移動した道筋なども確かめさせてもらった。また後藤さんを信頼し、後藤さんにも可能な限り信頼してもらえるようにして、互いに遠慮なく「こうしないといけない」「それでは納得できない」と言い合える関係づくりをした。

中でも信仰心をどのように伝えるかについて、後藤さんは工夫を凝らした。もちろん嘘をついてしまっては自伝の信頼性を損ねるので、慎重の上にも慎重を期する作業になった。読者は後藤さんと同じ信仰を抱く人、別の宗教を信仰する人、無宗教と自称する人、信仰を馬鹿にする人と想定して、誤解と先入観を与えないようにした。

だからといって無味無臭にならないのは当然で、ソーダを飲んで炭酸の刺激を感じるように、あるいはワサビの辛味が鼻を突き抜けるように、信仰とはどのようなものか本書で触れていただきたい。

それが違和感だったとしても、自分にとっての常識と相容れなかったとしても、肉体が限界に達した4536日に及ぶ監禁中に、精神が崩壊しなかった理由と信仰の相関がわかるはずだ。

私が念押ししなくても、本書を読めば自ずと気づくだろう。平和だったときから監禁中まで、後藤さんだけでなく家族それぞれの心理が刻々と変わる。迷路に迷い込んだような監禁中、さらに家族の心はグロテスクに変貌する。脱会屋と牧師の言動は後藤さんだけでなく、家族も追い詰めていく。自分を美化しないで客観的に弱さや迷いも赤裸々に書かれているため、人が人であるための物差しを後藤さんだけ失っていないのがわかる。