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kanzilyou/iStock
前に「漱石書簡集」の一節を引いて、本稿に日本の政情を書いたことがある。昨夜読んだ頁を題材に再度書く気になったのは、今日(2月4日)の『産経デジタル版』記事を幾つか読んだからだ。記事のことは後述するとして、先ずは1906年(明治39年)6月7日付の鈴木三重吉宛の手紙「神経衰弱で死んだら名誉」を以下に引く。
昨夜君の所へ手紙を書いたところ、今朝君のを受けとったから書き直す。原稿料は遠慮なく御受取可然。小生などは初めからあてにして原稿を書きます(中略)。
君は九月に上京の事と思う。神経衰弱は全快の事なるべく結構に候。しかし現下の如き愚なる間違った世の中には正しき人でありさえすれば神経衰弱になる事と存候。これから人に逢う度に君は神経衰弱かときいて然りと答えたら普通の徳疑心ある人間と定める事と致そうと思っている。
今の世に神経衰弱に罹らぬ奴は金持ちの魯鈍ものか、無教育の無良心の徒か、さらずば二十世紀の軽薄に満足するひょうろく玉に候。
もし死ぬならば神経衰弱で死んだら名誉だろうと思う。時があったら神経衰弱論を草して天下の犬どもに犬である事を自覚させてやりたいと思う。
鈴木三重吉(1882年9月-1936年6月)は、三高から東大英文学科に進み漱石の講義を受けるが、1905年に神経衰弱を患い、大学を休学して故郷の広島で過ごした。暫くして快癒し、1906年4月から7月頃まで広島市内の私立中学の講師をしていたから、手紙はその頃のものだ。
その間に処女作『千鳥』の題材を得、1906年3月に完成させて原稿を漱石に送った。漱石はこれに好評価を与えて高浜虚子に推薦した結果、雑誌『ホトトギス』5月号に掲載された。9月には漱石の手紙にあるように復学し、漱石門下として中心的な活動を行うようになる。
その後、1918年に児童文学誌『赤い鳥』(7月号)を創刊し、児童文学を芸術の域まで高めたが、53歳の秋頃から喘息に悩まされ始め、翌1936年6月に死去した。肺癌だった。