学問的な歴史に興味を持ったことがあれば、「史料批判」という用語を一度は耳にしているだろう。しかしその意味を正しく知っている人は、実は(日本の)歴史学者も含めてほとんどいない。
史料批判とは、ざっくり言えば「書かれた文言を正確に把握する一方で、その内容を信じてよいのかを、『書かれていないこと』も含めて検証する」営みだ。結果として、文字面には表れていないとんでもない意味が、当該の史料(資料)には秘められていたと判明することもある。
簡略な例を出すと、AがBに宛てて出した書簡に「Cは悪人だ」と書いてあったとしよう。書簡自体は捏造ではなく、文字の翻刻も正確だとする。それでは「Cは悪人だった」とベタに歴史書に書いて、OKだろうか。
そんなことはない。まずA・B・Cの相互の関係を、当該の書簡以外も含めて確認する必要がある。「BはAの上役にあたり、CはAとポストを争っていた」といった史実があった場合、書簡の内容は鵜呑みにできない。AがBに対してライバルのCを、むしろ誹謗したのかもしれない。
次に、時代背景も調べなくてはいけない。Cが悪人である理由が「十分に親孝行していない」と書かれていたら、同時代の家族の慣行や思想の潮流を押さえる。Cの行為は当時の道徳的なタテマエには違背するが、「実態としてはみんなそうだった」といった事情が見えてきたら、やはりAによる讒言説が有力になる。
これが学問的な史料批判の真髄で、書かれたものを常にそうした態度で扱うからこそ、「歴史学者の書く歴史がいちばん信頼できるね」ということになっている。タテマエとしては(笑)。
なぜ(笑)が付くのかは、みなさんお気づきでしょう。2021年の4月に公表されたオープンレター(現代日本語で書かれ、翻刻上の問題は存在しない)について、私は当時から「史料批判」を行い隠れた意味を把握していたが、歴史学者でそうした人は、誰もいなかったからである(苦笑)。