2006年、放射性物質ポロニウム210によってロシアの元情報機関員が毒殺された事件を覚えていらっしゃるだろうか。被害に遭ったのは、アレクサンドル・リトビネンコ氏。享年44歳である。
リトビネンコ氏の妻マリーナさんは、当初から「プーチンが殺害した」と話していた。その主張は、にわかには受け入れられなかった。そんな大掛かりな話なのだろうか、と思った人がほとんどだったろう。
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マリーナ・リトビネンコ氏 2018年 Wikimediaより
事件はロシアによるウクライナ侵攻(2022年2月)よりはるか前の話で、英国を含む西側諸国にとって、プーチン氏は海外に住む元情報機関員の殺害を計画・実行するような政治家とは思われていなかった。事件の4年前となる2002年、プーチン大統領はイタリアで開催されたきた北大西洋条約機構(NATO)首脳会議「19プラス1」に招待された。これを東西冷戦終結後の欧州の安全保障の転換点と見る人もいた。
しかし、リトビネンコ氏の死とほぼ同時期には反プーチンのロシア人ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤ氏がモスクワの自宅エレベーターで射殺されていた。2018年には英南部ソールズベリーで元ロシア軍情報機関大佐セルゲイ・スクリパリ氏と娘が神経剤で襲われる殺人未遂事件が発生。そして、昨年2月、プーチン政権を批判した反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏が収監されていた極北の刑務所で獄死した。
その後の英国での独立調査の結果も踏まえると、マリーナさんのプーチン殺害説は決して大げさではなかった。
「プーチンに勝った」マリーナさん過去10年以上、マリーナさんにじっくりと取材し、リトビネンコ事件の発生とその背景を毎日新聞・論説委員の小倉孝保氏が『プーチンに勝った主婦マリーナ・リトビネンコの闘いの記録』(集英社新書)としてまとめた。
小倉氏はカイロ、ニューヨーク両支局長、欧州総局(ロンドン)長、外信部長などを歴任し、ロンドン駐在中の2014年には日本人として初めて英国外国特派員協会賞(特派員部門)を受賞している。現在、毎日新聞で味のあるコラム「金言」を書くとともに、ノンフィクション作家として数々の本を出している。