そこでリュティール号の副司令官だったバルテルミー・カステランが全面的に指揮をとることになりました。

カステランはまず、船員の一部に島の掘削をさせて、水を掘り当て、そこに飲み水用の井戸を作ります。

他の船員にはリュティール号の残骸をできる限り集めさせて、仮住居としてのベースキャンプを設けました。

そして最大限の労力を注いだのが脱出用の船の建造です。

カステランはリュティール号の木材を再利用して、”神のご加護”を意味する脱出船「プロビデンス号」を作りました。

この作業には生き残った黒人奴隷も協力させられています。またその過酷な作業の過程で、黒人奴隷のうち28人が亡くなり、残りは60人となっていました。

2カ月に及ぶ作業の末、ついに脱出の日がやってきたのですが…

60人の黒人奴隷が15年間にわたって置き去りに

プロビデンス号の大きさは元のリュティール号よりも遥かに小さく、長さ10.5メートル、幅3.9メートルしかありませんでした。

そこに生き残ったフランス人船員と黒人奴隷を全員のせることは物理的に不可能です。

ご想像の通り、カステランはフランス人船員123人を先に乗せ、「後から必ず戻ってくるから」とだけ言い残し、黒人奴隷を絶海の砂の孤島に置き去りにしました。

そうして船員たちは無事に自国へと帰還することができたのですが、カステランはあくまでも責任感の強い男だったのか、黒人奴隷を置き去りにしたことに良心の呵責を感じます。

そこで彼はフランス政府に「我々の脱出を助けてくれた黒人奴隷たちをなんとしても救出しなければならない」と嘆願します。

しかし当時のフランス政府は1756年から始まったイギリスとの七年戦争(1763年まで続く)を理由に「資金もないし、そんな暇はない」とこれを断りました。

それでもカステランは何度も政府に救出用の船を出すよう懇願を続けます。

この問答の繰り返しが延々と続く中で、時間だけがいたずらに過ぎていき、トロムラン島の難破からすでに8年が経っていました。

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後の調査で見つかったリュティール号の残骸/ Credit: Thomas Romon et Max Guerout., OpenEdition Journals(2013)