誰かをスケープゴートにすることと同様に、「ロシア嫌い」はその感情を抱く側の欠陥を露わにする。私はそう確信している。「ロシア嫌い」は、ロシアについては何も教えてくれないが、ウクライナ人、ポーランド人、スウェーデン人、イギリス人について、またフランスの中流階級やアメリカの中流階級について多くのことを教えてくれるのだ。
同書、149頁
こうした言論は、戦後の日本人にとって見覚えのあるものです。トッドの見る冷戦下の「ハンガリーとロシア」の関係を、占領期の「日本とアメリカ」にスライドさせると、ちょうど後半生の江藤淳が唱えた中身と同じになるからです。
よく誤解されますが、江藤はアメリカ嫌いや反米ではなく、むしろネトネトした人間関係が残る日本とは正反対の、個人主義でさばさばした米国の気風が好きでした。むしろ彼の理想は、「アメリカに敗けたせいで俺らは」と愚痴りつつの湿っぽいつきあいを脱して、互いに自立したイーブンな2か国関係の形に、日米同盟を再編することだった。
『諸君!』の1970年1月号に寄せた論説「「ごっこ」の世界が終ったとき」で、江藤いわくーー
日本の反戦運動に決して米国の反戦運動の厳粛さは生れず、日本の反体制運動に決してソ連の自由主義者たちの悲痛さは生れない。それはいうまでもなく、戦後の日本人である彼らが厳粛な死と残酷な刑罰からへだてられているからであり、彼らもまた戦後日本人の自己同一性の混乱から自由ではないためである。 (中 略) 自己同一性の回復と生存の維持という二つの基本政策は、おたがいに宿命的な二律背反の関係におかれている。自己回復を実現するためには「米国」の後退を求めなければならず、安全保障のためにはその現存を求めなければならない。 (中 略) しかしもし米国が日本の提案に同意し、……新しい同盟関係が成立するとすれば、はじめて戦後の日米関係は、政治・軍事・経済の三つの分野にわたって均衡のとれたものとなり、かつての日英同盟に似た at arm’s length〔一定の距離を置いた〕の関係に更新されるかも知れない。