デイヴィッド・ドイッチュ(David Deutsch)の著書『The Fabric of Reality(知の織物)』や、マックス・テグマーク(Max Tegmark)の『Our Mathematical Universe(数学的宇宙へのいざない)』など量子力学の第一線で活躍する研究者によって執筆された名著でも、多世界解釈が登場し、量子コンピュータの背後に潜む並行世界の可能性や、宇宙論的視点からみた多世界像が語られています。

しかし──そんな「みんな大好き」な多世界解釈が、今、思わぬ方向から“危機”にさらされています。

英ブリストル大学のサンディ・ポペスク教授とダニエル・コリンズ博士による新たな研究によって、量子力学における最重要な原理のひとつとされる「保存則」に関する新しい研究が、「多世界を仮定しなくても、あるパラドックスが解消できるかもしれない」と主張し始めたのです。

多世界解釈は物理学の根幹となる「保存則」において、他の説より有利な位置にいることが拠り所となっていました。

なのに「一つの世界だけで保存則が守られる」ことが論理的に示せるなら、「分岐」や「並行世界」といったロマンあふれる話を支える柱が消えてしまうことになります。

今回は、こうした多世界解釈をめぐる新局面を「危機」としてとらえ、まずは量子力学の基礎をかみ砕きながら、なぜ多世界解釈という考え方がそもそも魅力的なのかを紹介します。

そのうえで、多世界解釈が登場した歴史的背景や、近年の理論的展開を概観し、Collins & Popescu の研究が提起した保存則について詳しく取り上げ量子力学の解釈問題がどこまで進んでいるのか、その最前線に迫ってみたいと思います。

「世界はひとつなのか、無数なのか?」という問いかけは、単なる空想の話ではなく、量子力学という理論が突きつける根源的なテーマのひとつです。

量子コンピュータや量子通信などの実用面だけでなく、現実とは何か、私たちの存在とは何かという哲学的・宇宙論的な視点にも関わってきます。