そこで『大空のサムライ』のことになる。この撃墜王坂井三郎の手記は、67年5月に光人社から刊行された。撃墜数やその言動・指導振りなどには諸々批判もある。が、この種の手記に潤色は付き物だし、彼が高雄・台南から大陸を経てニューギニア・ラバウルと転戦し、ガナルカナルで重傷を負い、内地で療養しつつ部下を指導した後、再び出陣した硫黄島から報道班の横光利一と共に九七式飛行艇で横浜に戻ったその経歴は紛れもない。

筆者が本稿を書こうと思ったのは、坂井が37年に20歳で入隊した霞ヶ浦航空隊で教官から受けた訓練指導に「否定語」が溢れていたからだ。「三式二号初歩練習機」は複座で、前に教官が、後ろに練習生が乗る。後部席も計器や操縦稈など前と同じ仕様になっていて、練習生は教官の操縦振りを体感できる。前後の会話は「伝声管」を通じてされるが、そこで次のような「否定語」が連発されるのである。

<離陸時の地上走行時>

この位置まで機首を突っ込むんだ。水平線との関係位置を確かめろ。これ以上突っ込むと、ペラが地面を叩いて危ない。目標を忘れるな。この位置で自然に浮き上がるまで待て。無理に操縦稈を引き上げてはいけない。わかったか。

<水平飛行時>

地平線をしっかりつかんで、千鳥足にならないよう、また上がったり下がったりしないように、気を付けねばならない。

<エンスト対応>

離陸直後にエンストを起こしたら、飛行場に引き返すという考えは絶対に起してはならない。

死なないためにその状況で「絶対にしてはならない動作」を「否定語」で強く伝えているのである。あの時、羽田の管制官が海保機機長に伝えるべきことも「指示あるまで滑走路に入るな」であったに違いない。そうであったなら、機長は副機長と共に「滑走路に入らずに待機」と復唱していたに相違なく、事故は未然に防げたことだろう。

関連して昨年暮れに韓国務安空港で起きた航空機事故にも触れておく。坂井が、ガナルカナルで重傷負って帰国した傷が癒えて赴任した大村航空隊で、若い練習生を複座機で指導中に、油圧の油漏れで脚が出なくなる事態に陥った時のことが、『大空のサムライ』に書いてあるからだ。