朴正煕が急進的な近代化を追求した結果、伝統的価値観や個人の自由が軽視され、多くの社会問題が生じました。彼の国家主義と権威主義は現代韓国の保守派に受け継がれ、韓国の経済的自由や政治・社会的自由を制限し続けています。この点で、彼の思想はアルゼンチンのペロン主義とも似ています。

結論として、朴正煕から続く韓国の保守主義はその限界が明白であり、朴正煕を否定しない限り右翼的権威主義に留まるでしょう。彼の政策が歪んだ「自由主義」を広め、個人の自由や多様性を制約したことは、今後も批判的に検討されるべきです。

8. 全斗煥政権

朴正煕大統領の掲げた「反共主義」「経済的介入主義」「国民保守主義」を中心とする保守派は、後に「オルドライト」(旧右派)と呼ばれるようになりました。この保守派は朴正煕暗殺事件後、全斗煥政権でも主流を占めていました。

この保守派は、特定のイデオロギーというよりも、朴正煕という指導者を中心に形成されていたため、韓国で「保守」の範囲を厳密に定義する必要はありませんでした。

李承晩(イ・スンマン)の自由党、朴正煕(パクてんチョンヒ)の民主共和党、全斗煥(チョン・ドゥファン)の民主正義党といった与党だけでなく、民主党や新民党、統一民主党といった野党も保守系と見なされていました。つまり、韓国における保守派は、独裁政権下では党派の違いを超えた広範な枠組みで存在していたのです。

9. 民主化と保守・革新の明確化

1990年1月、盧泰愚大統領(中央)、金泳三統一民主党総裁(左)、金鍾泌新民主共和党総裁(右)が緊急3者会合を持ち、3党を主軸にした新党創党を発表

1987年の民主化以降、保守と革新の区分がより明確化しました。盧泰愚(ノ・テウ)大統領時代、民主正義党(国民保守主義)は少数派与党として困難な状況に直面しました。盧泰愚はこれを打開するため、1990年に金泳三(キム・ヨンサム)の統一民主党(穏健保守主義)と金鍾泌(キム・ジョンピル)の新民主共和党(親朴正煕)との合党に踏み切り、「民主自由党」を結成。約217議席を擁する巨大与党が誕生しました。