はっきり言って、韓国は朴正煕の国家資本主義の下で建てられた国ですね。

朴正煕の近代化保守主義は、国家主導の、上からの経済開発を進め、国家介入を正当化しました。 過去からの過ちが招いた現代の試練を克服するための急進的な変化(近代化)を目指していたことから、エドマンド・バークの保守主義とは異なります。

同時に、この未来は民族主義と結合し、民族復興、檀君(ダンクン、韓国の神武天皇のような人)、高句麗(コウクリ、韓国史上最大の領土を持っていた国)、新羅(シンラ、三国を統一した国)の花郎(ファラン、新羅の青少年修養団体)精神、世宗(セジョン、朝鮮の国王)のハングルなどの修辞的表現を使用し、進歩でありながら復古主義的でした。

朴正煕の民族主義は金九の民族主義とは違って、国家主義かつ権威主義的体制の保持のためのものだったのです。

問題は、朴正煕大統領も、たまたま「民族の自由」「共産主義からの自由」を語っていたということです。

しかし彼の論ずる自由とは、個人は所属している集団が外部から独立されている集団的自由(自主独立)に恵まれている時こそ、初めて個人の自由が享受できるということでした。実は、ナチス党歌の「ホルスト・ヴェッセルの歌」でも、自由という歌詞がありますね。

彼らにとって集団の自由を脅威する個人の自由は、排除されるべきだったはずです。

現代韓国の保守派や自称自由主義者たちが語る「朴正煕式自由」は、共産主義からの自由に限定されており、経済的自由や政治・社会的自由には及びません。この点で、韓国の保守派は表向きアメリカの保守派を模倣しながら、裏では日本の保守派と似通っていると言えるでしょう。

例えば、韓国の某ハイエク研究者は、「朴正煕の経済発展は国家主導的だったが、そのおかげで私たちの生計を立てる自由が生じた」という、とんでもない話を言ったことがあります。しっかりした自由主義者なら、決してこんな出鱈目は言えません。