田野氏の狙いである
「自分たちは正義の側である」という意味づけにより「悪者」を糾弾することなどの体験を通して「集団心理が暴走することの怖さ」を学ぶ
って、まさにこういう「Woke」カルチャーの一部にも当然当てはまる要素ですよね。
「敵側」だけでなく「自分たち側」にも、つまり「原罪に近いもの」ぐらいの存在として”自分も含めてそういう要素を持って生きている”ことに自覚的になるところから出発しないと、
「自分たち善人」とは違う「巨悪」が社会には存在していてそれをやっつければオールハッピーなのだ
…というのはファンタジーでしかない。
こういう反転可能性を常にセルフチェックしながら、どうすれば「社会の逆側にいる」人たちとの双方向コミュニケーションを実現することができるのか?を考えるべき時代になってるはずですよね。
ちなみにハンナ・アーレントは、歴史的にありとあらゆる「知識人主導の強引なユートピア幻想」に批判的だった人みたいで、ある種の「狭義の知性の勝利」を夢想したいタイプの人たちから定期的に攻撃されてるのもわかる感じはします。
なんせアーレント氏は、当時の知識人の切なる夢だったソ連とか文化大革命期の中国だけじゃなくて、さらにはフランス革命にすら批判的だったそうなので。
でも今の人類社会の現状を考えると、
「理想」を追うのはいいけどその熱狂のままロシアに大軍送って首都級の街を一つ丸焼けにするような事されたら困るよね…という不具合のツケを払わされている
…みたいなところがあるような?(個人的な意見としては、ファシズムもこういうレベルの巨視的な”作用”・”反作用”の結果の出来事として理解し対策していくべきだと思っています)
ある意味で過去二百数十年ぐらいの人類社会っていうのは、
自由平等博愛とか人権思想とか、そういう「理想」を実現するための熱狂を維持するためには、たまにやりすぎちゃってロシアみたいな辺境の蛮族の都市なんていくつか丸焼けにしたって仕方ないよね!そのおかげで今人類は人権思想を共有できてるんだし!その大義に比べたら些末な、必要な犠牲だったよね!
…みたいなモードでやってきたわけですけど、こういう傲慢さは「欧米」が人類社会のほんの一部にすぎなくなっていく時代には維持不可能になってくるわけですよね。
結果として「人文知的理想」の『外側』との双方向コミュニケーションこそが必要だというのは、もう当然の時代の要請になってきつつある。
「アイツラはバカだから我々の正しい議論を理解していないぞ。これはいかん、もっと強くお説教して理解させなくては!」
…みたいな態度の限界が、今の人類社会の現状を素直に見れば当然の結論として導かれるだろうからです。
自分たちが属する流派のサークルの『外側にいる存在』とちゃんと「同じ場を共有する」ような形を維持し、その先で「生起」し「誤配」されてくるあらゆる計算外の事象も含めて常にフィードバックを受け取り変化し続けていくことの中に、「描かれた理想」の実現の道は生まれるわけです。
8. 田野氏 vs. 東氏の世代の世界観対立は、下の世代では止揚されてきつつあるかも?とはいえ、東氏の議論は(僕の議論も)ちょっと一種泥縄式に見えるというか、もっとスマートな?「狭義の知性の勝利」を信じたい人もいるでしょうが、そういう流派(いわゆる”左翼?”)の中でも下の世代はかなり違う発想があるんだな、っていう感じがあるんですよね。
それが、冒頭で紹介した朱喜哲氏の「公正を乗りこなす」なんですけど。
この本、何の前情報もなしにAmazonにおすすめされて読んだんですけどかなり印象的でした。
上記の書影の「サブタイトル」がなかなか凄くて…
・正義の反対は別の正義か? ・正義は暴走しないし、人それぞれでもない。
このサブタイトル見たら物凄いファナティックな人なのかな?って思うじゃないですか(笑)
・「正義の反対」は別の正義じゃなく「許されざる悪」に決まってるだろ! ・「正義の暴走」とか言うやつはただ「社会に蔓延る悪」を温存させたいだけの「権力者の犬」なのだ!
こういう感じ↑の事を言ってる人たまにSNSで見かけますけど、この本の「サブタイトル」はかなりそういう感じに見える(笑)
そう見えるけど、内容は全然そんなレベルの話じゃなくて、良い意味で期待を裏切られて勉強になりました。
この本は、思想家の名前でいうと(私自身も昔結構好きで読んだことがある)「リチャード・ローティ」とか「ジョン・ロールズ」とかをベースにして、「言語分析哲学」的な発想でこの問題を細かく腑分けして解決していこう、みたいな感じのコンセプトです。
要するに、
「各人が考える正義(これを”善の構想”と呼ぶ)」はそれぞれ違ってもいいが、そういう「全く違った正義を持った存在同士」が同じ社会を共有している中でそこに生成されてくるような「共通了解」をこそ、本当の意味で「正義」と呼ぶようにしよう。
…みたいな感じで、それぞれの「各人が持つ善の構想」同士の優劣とか善悪には立ち入らずに、その上での議論の交通整理を徹底的にやっていくことで分断を超えていこうとする発想…なのかな。
とにかく、こういう「自分たち」の『外側』との「動的な調整プロセス」が自分たちの思想の中にビルトインされていなくてはならない…という発想の枠組みが自然にあるのはとても素晴らしいことだなと思いました。
アメリカが四年に一回大騒動になり、欧州は極右政党が入閣してない国の方が珍しいぐらいになり、欧米的価値に真っ向から反対している国々が経済的に大きな力をつけて・・・という時代には、「こういうモード」は当然の前提となって下の世代の思想を形成していくことになると思います。
朱氏の考え方は僕が提唱している「メタ正義」構想にものすごく似ていて、とはいえその「方法」は徹頭徹尾「言語哲学系」の明晰さベースであろうとしている感じの「大きな違い」も感じてなかなか考えさせられました。(Amazonが紹介してくれた出会いに感謝しなきゃですね。)
「狭義の知性万能主義」に対する東氏に代表されるようなチャレンジのあり方が、下の世代には「新しく統合された視座」に繋がっていく流れが生まれていけばいいですね。
9. おわりに:「アティチュード」も大事だぜ、という亜インテリからのメッセージを受け取ってくださいなんか、今回ここで紹介した本以外も色々と「文系の学問」の本を読んだんですが、やっぱアカデミア内にいる「学者」の人はちゃんと言葉を共通了解に基づいて使っていて偉いなあと思いました(笑)
自分も昔はそういう議論を積極的に参照してたんですが、最近はもう徹底的に「自分の言葉」でしか話せない脳になっちゃって、まあそういうところはプロの人に任せたいですね。
そういう意味でも、田野氏の本での「色んな学者さんたちの議論」が、全体としては僕が望んでいるような方向にちゃんと広がっていっているのが概観できてそこは凄い良かったです。アカデミアを総体としては「信頼」していいんだな、と思えた。
自分はもっと野蛮な方法で、経済経営の現場感とか、色んな社会課題への具体的提案みたいなのとパッケージしつつ、アメリカの「ビジネス書」っぽい即物的な方向性で言論活動をしていって、「メタ正義構想」を”実際に普及させる活動”をしていければと思っています。
「野蛮な方法」というとイメージが悪いですが、たとえば朱喜哲氏の本は凄い面白かったけど、なんか凄い「正論」すぎてちょっと引いちゃう部分は自分にあるんですよね。
僕は経営コンサル業のかたわら、色んな人と「文通」しながら人生について考えるという仕事もしてて(ご興味があればこちらから)、そのクライアントには普通のビジネスパーソンから、エンジニアの人とかアイドル音楽の作曲家の人とか主婦の人とか、色々いるんですが、最近は学者さんも結構いてですね。
なかでも専門は精神科医だけど朱氏と同じく「言語分析哲学」を応用して論文を書いてるっていう先生と文通していた事があって、彼の議論を色々聞いてると、色々な社会問題について物凄い
「せ、正論や〜!」
…っていう答が出てくるんですよ。
そういう「言語分析哲学」的アプローチで問題を腑分けしていくことが問題解決の準備段階としてものすごく重要なテクニックになっていくだろうことは間違いない。
ただなんか、「正論」すぎて取り付くシマがないというか、「あらゆる問題は明晰に分析されて明晰に正しい結論を出されるべき」という言語優位な発想をものすごく強固に持っている人たちの間以上に「納得」を生み出すのは相当難しいだろうな、という気持ちになります。
で!
私みたいな「亜」インテリからアカデミア内のインテリの人の言いたいことは、最終的には「言っている内容」以上に「アティチュード(態度)」も大事だってことです。
私がよく「フェミニズムムーブメントは、私大医学部の入試差別を糾弾するときに、ちゃんと医療制度改革まで話をつなげるべきだ」って言ってるのはそこで、実際の人間社会においては「そこに踏み込む態度」があるかどうかで反応が全然変わってくるんですよ。
これは別にすぐに「医療制度改革の答」が出てこなくても全然良いんですね。むしろそんなすぐに答が出てくるわけがなく、その分野の専門家にちゃんと話を繋ぐことこそが大事で、「そこに踏み込む姿勢(アティチュード)」があるかどうか。
ただ無意味に「女を虐げたいからやってるんだろう」と思い続けるのか、「そこにあった事情」を迎えに行って一緒に解決する姿勢があるのか。
本当に社会を変えたかったら「Woke教の信者の内側」に普及するだけじゃダメですよね?その「外側」「社会の逆側」に話を伝えたければ、そこに踏み込む「態度」と「敬意」が必要なんですよ。
これは「もっと丁寧な言い方をしないと受け入れられないゾ」的ないわゆるトーンポリシングではなく、なんならちゃんと「本質的な敬意」があればもっと野蛮な言葉遣いをしたって全然OKになるはず。
「アティチュード」のレベルでちゃんと「敬意」がある振る舞いがデフォルトになっていけば、相互信頼のチャンネルが開いて、むしろ「トーンポリシング」なんて全然いらないというか、日常レベルでのマイクロアグレッションに対する異議申し立てなんてもっとバンバンやったっていいぐらいになるんですよ。
でもその「敬意と貢献の気持ち」がゼロな人が、人工的な規範を振り回してあそこが間違ってるここが間違っている日本は地獄だ、って言いまくって話を聞いてもらえるという発想自体が個人的には全く理解できません。
お前は「お客さん」なのか?って話になるでしょう。(これは別に今年医学部受ける18歳の女の子にそこまで考えろって話じゃなくて、大人になって社会経験もある学者さんならそこまでやってくれよって話ですからね)
そこで「狭いインテリサークルの外側」まで届く本当の敬意を持ちえるかどうかが、欧米におけるインテリとそれ以外の痛烈な分断や、人類社会全体で見たときの「欧米vsグローバルサウス」みたいな問題を超えて、日本が人類社会の分断を超える新しい旗を立てる道を歩めるかどうかの分水嶺となるでしょう。
最終的には、こないだ一橋大学の橋本先生↓との対談の最後にでてきたように、
・インテリの暴走とそれへのバックラッシュの分断で悩む人類社会に対して、 ・オバマやサンデルみたいな欧米の穏健派知識人の問題意識ときっちり共鳴させていきながら、 ・同時に「こんまりさん」が爆売れしたような文脈にパッケージして「オー!ファンタスティック!これが西洋の限界を乗り越える東洋の知恵なのね!」みたいなオリエンタリズム文脈で ・日本発のメタ正義構想を売り込めるようなポジションを取っていく
…というのが私の計画です。
橋本先生は、第三世界での紛争地での勤務経験も豊富なスーパー実務家教員なだけあって、「欧米の内側」と「欧米の外側」がガチでぶつかりあっている21世紀の「今」のリアリティを凄く理解していて、「ハダカの啓蒙思想の絶対性に引きこもる姿勢」を超えていかないといけないという確固とした意志があって凄い話していて楽しかったです。
「そういう世界認識がデフォルト」になっていく時代になっていけば、むしろ日本はちゃんと「党派性を乗り越える議論」ができるようになるはずなんですよね。
以下は私の本からの図ですが、
日本社会の「保守性」を、単なる「先進国の進んだ発想へ対応できない後進性」と捉えるのか、「欧米という特権階級の内輪のノリ」でなく「80億人レベルの人類社会のリアリティを代表している」と捉えるのか?というのが大きな分水嶺になるんですよ。
で、この「両側から押し込んでいる注射器」みたいなものが拮抗状態になればなるほど、ただ「敵側を否定して自分たちの絶対性に引きこもる」ロジックの有効性は徹底的に無意味になっていく。
そうなればなるほど、現実社会でちゃんと具体的なアクションを共有しようとするならば、「メタ正義的」なものにならざるを得ない状況に追い込まれていくはずです。
過去20年の人類社会は、「ハダカの啓蒙主義の傲慢さ」が人類の歴史上一番調子乗ってた時期みたいなところがあったので、日本国内がある種「右傾化」的な形でそれを防衛する必要はどうしてもあった(と私は揺るぎなく信じている)。
私は中学生ぐらいのときは「敬語」というシステム自体許せないような、「狭義の理性の勝利」を信じたいタイプの人間だったんですが、高校入って全国大会にその時点で出場回数が通算一位、みたいな部活の中心人物になって「そういうモード」で改革しまくったらメチャクチャ弱体化しちゃって、「そういうのだけじゃイカンのだな」って痛感したんですよね。
外資コンサルからキャリアを始めたあとも、結局本当にこういう「資本主義的な意味での合理性」をちゃんとエリートの内側だけでなく津々浦々まで浸透させるには、「ローカル社会側のナマの義理の連鎖」を敵視せずWin-Winに溶け合うように持っていかないといけないと思うことが沢山ありました。
結果として、若い頃はわざわざ肉体労働したりブラック企業で働いてみたりカルト宗教団体に潜入してみたりするフィールドワークをしたあと今は日本の中小企業相手がメインのコンサルタントで、実際にローカルな中小企業で10年で150万円ほど平均給与を上げられたような例もあります。
そういうのを安定的に津々浦々でやるには(つまりアメリカみたいに凄いところは超凄いけどスラムはほんと絶望的、みたいにしないためには)、
『狭義の合理性』を社会に実装していく段階で、そういう合理性から見て完全に『外側』に存在する『社会のナマの義理の連鎖』を対等な存在として尊重し、その上であくまで「狭義の合理性」の最も大事な部分は妥協しないで受け入れてもらうように持っていく
…こういう態度だと私は思います。
これは私の本とかでもよく言ってることですが、最終的に「実現した」段階で見てみると、頭の良い人が考えたことが9割5分ぐらいそのまま実現していても(笑)いいんですよね。でもそれが「ただ言ったとおりにやれ」で実現しようとするとその「残りの5%部分の大事なローカライズやブラッシュアップ」ができなくて、結果として「全く違うもの」になってしまうんですよ。
『そこに必要な双方向性』をいかに哲学的に位置づけるか?みたいなところが今回の東浩紀氏の「訂正可能性の哲学」なのだと私は読みました。
いわば、「非欧米」のリアリティを代表する存在として、「欧米的な理想の一番良い部分」と「人間社会の実相」との間のラストワンマイルを堀り抜くのが我々の使命だってことですね。
昨今の日本の政治的混乱は、「そういう風になってきたら本当の進歩へのチャンスなのだ」と10年ぐらい前から著書などで言ってきた状況そのもので、「予言者ですねw」ってたまに古い読者の人にいってもらえる状況になってきているので。
この「混乱」が既存の小賢しい党派性をすべてグッダグダの泥沼に叩き込むとき、消去法的に「自分と逆側の人」との対話を諦めなかった人間が主導権を取れる世界がやってきます。
堂々と進んでいきましょう。
■
メチャクチャ長い(普段も長いけどさらに倍ぐらいw)文章をここまで読んでいただいてありがとうございました。
年末年始だし、多分ゲンロン社のコンテンツとか、田野氏の本とか読む人はこの程度へっちゃらに読めるだろうと信頼して書きました。
普段はあんまりこういう「アカデミア内における思想」分野には全然タッチせずに生きてますが、年末の時間に一度どっぷりとハマれて凄い有意義でした。自分自身がやってることを大きな文脈の中で捉え直すことができた。
2024年はまた新しい本も依頼されてますし、今年よりさらにコンサルよりも「言論家」寄りの仕事を増やしていければと思っています。
今後ともご愛読よろしくお願いします!
■
つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。
編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2023年12月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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