1. 「文系の学問など役に立たない」という話をしているのではなくて、むしろ逆。

    なんか、こういう批判は、今の世の中ありふれてる面もあると思うんですが、僕が言ってるのは「役に立たない文系の学問なんかやめてしまえ」っていう話じゃ全然なくてむしろ逆なんですよ。

    『文系の学問』の知見をもっと世の中に活かしていくには、「象牙の塔の”外側”」との”双方向的な”インタラクションが必要ですよね、という話をしている。

    私の経営コンサル業のクライアントで、中京地区で女性の登用にかなり気を使ってる会社があるんですが、「そういう会社が抱えている歴史的経緯や課題」自体を尊重して向き合う気があるなら、その先では「マイクロアグレッション」みたいなジェンダー学的な知見が意味を持つんですよね。

    でも、「そういう会社が抱えている個別具体的な難しさ」とかを全然勘案せずに「お前らは間違ってる」って言うだけだったら取り入れようがないじゃないですか。

    以下画像のように、「問題が周知されるまでの段階では非妥協的である必要がある」のも事実ですが、いざ問題が周知されたあとの「解決する段階」にいどむには具体的な解決策を積んでいく『双方向性』が必要になる。

    確かに今はまだ「左側」の「滑走路段階」にいる問題も沢山あるだろうし、田野氏がSNSで吠えまくってくれたおかげで僕がこの問題に気づいてこの本に出会えた、というのは紛れもない事実(笑)なんで、現段階ではそれでいい面もあるんですけどね。

    ただ「このモード」が最終形と思ってもらったら困るというか、もっと先の「双方向インタラクション」の形が必要ですよね。

    「SNSで騒いでいるタイプの人に反論する」のも大事だけど、そういう「党派性の罵りあい」と違うところで、現実社会の要請に対してあと一歩違った関わり方をしていくべき分野があるはずで。

    そういう部分でちゃんと「社会の現実を差配している層」との「双方向的インタラクション」から逃げていると、「理想論」と「現実」とのギャップが決して縮まらないまま社会の中で未解決のままでほったらかしにされる課題が山積みになっていって、それへの苛立ちからファシズム的にそれを「押し流してしまう」ようなエネルギーを止めることができなくなってしまう。

    そして田野氏がナチス時代のドイツの歴史について主張するように、そういう”強引さ”で実現した政策は一部に良いように見える部分があっても結局総体として非常に不幸なシワ寄せを生じさせがちなものとなるでしょう。

    要するに、さっきの成田氏の話でいえば、「世界一の少子高齢化に対応する医療制度改革」という「具体的な課題」から逃げて、成田氏を「ナチスの再来」とか罵って終わりにしていると、「実際の医療制度改革」を主導するのは場合によってはガチで「足手まといの老人は●ぬべき」って考えている人が牛耳ってしまう可能性があるってことです。

    そこにこそ、「リーンイン」してちゃんと現実と格闘して参加していくべき課題があるはずですよね?

    もちろん、「象牙の塔の内側」での研究には完全な研究の自由が認められるべきだし、その点で最近の日本の大学が不自由しがちなのは解決しなきゃいけない問題ですよね。

    それに、田野氏の歴史学研究からの知見はそれ自体色々と勉強になって、「アイヒマン像」がむしろ「凄く仕事できるヤツ」的な見方に変わってきたファクトの積み上げには色々と考えさせられる問題がある。

    しかし、その先で「もっと社会と関わろう」とするなら、そこに生まれる特有の難しさとの、「異なる学問分野同士」そしてもっと言えば「学問の”外側”で生きている人々との間の」異文化コミュニケーションが必要になる。

    今ここで喫緊に課題になっているのは、

    「理屈通りに動かない世の中」を全部ギロチンにかけようとするような、「ハダカの啓蒙主義」みたいなものの傲慢さをいかに掣肘するか

    …みたいなことなんですよね。

    そしてこれは繰り返すように、「文系の学問なんか役にたたないから黙ってろ」という話じゃなくて、「閉じた絶対性に引きこもってたら現実に活かしようがないじゃん」という話なんですよ。

    そういう「ハダカの啓蒙主義の限界」を思想的に位置づけることによって、むしろそれを「現実社会の中で使いやすくする」ということが今必要なことで、東浩紀氏の「訂正可能性の哲学」っていうのは、そういう「課題」に向けて書かれた本なのだと思います。

  2. 『訂正可能性の哲学』はどういう本か?

    東浩紀氏の「訂正可能性の哲学」は、

    「純粋な概念」が「現実」との関わりの中で「受肉」していくプロセス

    …について非常に分析的に語っていくことで、

    今の人文知が足りていないものが何で、どうすれば「人文知」と「現実との関わり」が「知性の敗北」ではなくむしろ「知性の本当の勝利」に繋がるものになりえるのか?

    …ということを掘り下げていく方向性なのだと思います。

    ってめちゃザックリ言ってるけど、これ以上詳細な議論はちょっと僕には紹介しかねるので、ぜひ本を読んでください(笑)

    この本だけ読んだのがちょっと前ってのもあるけど、僕の思想自体が東氏の思想ともともとかなり近すぎて、混線しちゃって冷静に要約できない感じなんですよね。(あと、東氏はかなり熱意を持って「テックギーク系のユートピア思想」も論破しようと頑張ってるんですが、そこは今回記事の趣旨とかなり外れるということもあります)

    でも、この記事をここまで読んで、「訂正可能性の哲学」の意図するところがかなり理解しやすくなったと感じた人がいてくれたら嬉しいです。

    なんにせよ、東氏の思想は、「ゲンロン社」という中小企業の経営体験とかなり表裏一体というか、「そういう思想」だから「ゲンロン」をやってるとも言えるし、「ゲンロン」をやってるから「そういう思想」に肉付けが進んだというところもあると思う。

    実際、本の中には彼のゲンロン社経営体験からの知見、みたいな話が結構出てきます。

    要するに「純粋な概念・コンセプト」の時点ではそれは「中身がないもの」に過ぎなくて、「現実社会」とぶつかって関わり合う”関係性を維持する”ことによって、そこに生起する「誤配」的な繋がりの総体によって「受肉」して具現化していくんだ、みたいなことなのかな。

    これって、村上春樹が自分の小説について述べていた、「ある作品の正しい読み方」というのがあるのではなく、「作者から見たら誤解と思えるものも含めて、百万人読者がいたら百万通りに生起する内容こそが”その小説の中身”なのだ」みたいな、そういう捉え方に近いイメージを個人的には持っています。

    昔、東浩紀氏の本をいくつか集中的に読んだことがあって、その時に凄い印象的だったのが、

    「ノマド」とか「マルティチュード」とか「コモン」とか、そういうコンセプトが大事だとか言うのはいいが、それを言っている本人の多くは大学教員という公務員でしかなく、そういうコンセプトの「実行段階」においてどういう”現象”が生じるかについて全く理解できていない。

    …みたいな話をしていて、凄い面白かったんですよね。

    「提唱するコンセプト」が「実際の人間の集団」と相互作用してみると、色々と予想もしなかった事が起きるわけじゃないですか。

    でもその「予想もしなかった現象のすべて」こそがその「コンセプトに内包されていたもの」なので、それを「間違っている」と否定していってもどうしようもない。

    むしろそこで「どう対応(訂正)を繰り返していくか」によって、その「コンセプト」が社会の中に「受肉」し、具現化していく道が拓ける。

    さっきも少し書きましたが、「ファシズムに対抗するためには”個人であり続けることが大事だ”」みたいな発想自体はいいとして、そういう人は

    「ナマの個人が百人とか一万人とか、一億人とか八十億人とかいて常に相互作用して利害調整を常に行い続けている」という現実の”複雑性”

    から逃げてる側面があるんですよね。

    で、「ノマド」とか「マルティチュード」とか「コモン」とか、あるいはもっと「Woke」系の社会運動コンセプトでも何でもいいんですが、それ例えば「参加者が100人とか千人とか、百万人とか超えたらどうするの?」みたいな問題に対して物凄い牧歌的な事しか考えていないことが多い。

    何ならもっと少ない人数の学会とかSNSの集まりみたいなものでも、めっちゃ強烈に内輪もめしてたりして(笑)、いやいや、「そのコンセプト」で世の中全体に立ち向かうんじゃなかったんですか?みたいな話になる。

    「理想を描く」ことは大事だけど、その「理想の実現」に動きたければ「自分たちの仲間」だけじゃなくてもっと「人文知の外側にいる人」に対してそれをアピールし、相互作用し、自分も相手も「変わって」いく中で「受肉」させていかないといけないじゃないですか。

    何度も言うけど、「象牙の塔の中」で「第二次大戦期におけるナチスの意思決定プロセスについてファクトベースで議論する」のは思う存分やってくれたらいいんですよ。さっきの東氏の批判も「そのこと」を批判している文章ではないはず。

    だけど、そこから先に「現実社会」と関わるときには、あと一歩踏み込んで胸襟を開いた「別のモード」が必要なのでは?ってことなんですよね。

    そしてそこにおける「人文知」と『人文知の外側にいる人々』との異文化コミュニケーションのモードが開発されることは、「思う存分人文知をやれる環境を社会に尊重させること」のためにも必須不可欠なことなのではないでしょうか。

  3. 「敵対政治勢力」を「ナチ」に例えるのはもうやめよう

    ともあれ、田野氏の本で「思想史研究者」とのガチ討論みたいなのを読むと、僕がアカデミアの外から反対したがっていたような事は、「人文知の内側」でもっと穏当で洗練された形でちゃんと反映してくれてる人がいるんだな、という風に思えたのは凄い良かったです。

    そして、そういう「狭義の理性万能主義(ハダカの啓蒙主義の絶対化)の反省」みたいな思想運動を生み出していくにあたって、東浩紀氏の活動はやはりかなり大きな意味を持ってるんじゃないかと思いました。

    なんかSNSを見ていると、たまに若手でちょっと研究者寄りの左翼っぽい人がかなり唐突に東浩紀氏をディスっててビックリするし、東氏は普段よく動画配信で酒飲んでいかに自分がアカデミア内で不遇な存在かを愚痴りまくったりする人なんで心配してたんですが(笑)

    でも田野氏の著作のようにガチにアカデミックな場において、ちゃんと東氏の言説も参照されていてほっとしたところがあったですね。

    田野氏がそういう人だという意味ではないんですが、そもそも論として「敵対政治勢力」を「ナチ」呼ばわりするのはそろそろやめるべきだと思うんですよね。

    プーチンですらウクライナ戦争は「ナチとの戦い」とか言ってますし、今回のイスラエル・パレスチナ問題では、「ホロコースト博物館公式ツイッター」がイスラエルのガザ侵攻を擁護して大問題になってましたし。

    そういう「党派性で便利に使われる”ナチ”」ってむしろホロコースト被害者への冒涜だと思います。

    「ナチス」を「誰か個人の罪」とか「ドイツ民族の罪」とか考えてる時点で、それの再発を防ぐ本当に本質的な対策はできないはず。

    ファクトベースで積み上げる必要がある歴史学は、思想史研究者がざっくり巨視的に捉えるのに比べてそういう視座を持ちづらいとは思いますが、いずれ歴史学研究もそういう方向に向かうのではないかと思います。

    そういう深い部分をえぐった言葉としてハンナ・アーレントの『悪の凡庸さ』という概念は凄い意味を持ってると思うんですよ。

    例えば田野氏のウィキペディアによると、彼は「ファシズム体験授業」というのをやっていて、それは以下のような狙いだそうですが…

    「権力の後ろ盾があればいとも簡単に、社会的に許されないことができてしまう」ということを学生に考えさせることを目的として、所属校である甲南大学でファシズムの体験学習授業を行っている。学生が同じ服装でナチス式敬礼や「自分たちは正義の側である」という意味づけにより「悪者」を糾弾することなどの体験を通して「集団心理が暴走することの怖さ」を学ぶというものである。こうしたファシズムと同様の仕組みは、現在も世界中で広がる排外主義運動に見出すことができるという。

    (ウィキペディアの田野大輔氏の項目より)

    もちろん排外主義運動はなんとかしないといけないですけど、でもこういう「ファシズム性」を持った集団は「敵側の政治勢力」にだけあるものだと思いますか?

    オバマ元大統領がいわゆる「Woke」カルチャーを批判した発言が有名ですが…

    オバマ前大統領、ネット上の過激な批判カルチャーを非難「世の中は変わらない」