年末年始に、普段時間なくてなかなか読めないタイプの本を読もうと思って、色々と人文社会学系というか、いわゆる『文系の学問』の本を何冊か読んでました。
そしたら、ある種の文系の学問世界における「今のトレンド」が色々と感じられてかなり有意義だったんで、今回はその話をします。
テーマは、時々「対立関係」として捉えられることが多い、
『文系の学問』vs.『現実社会のリアリティ』
…みたいな問題について、今後どういう方向に進めば有意義なのか?という感じかな。(色々分野がある中でかなり雑に”文系の学問”ていう言葉を使っていますが、とりあえず今回はざっくりした議論として受け止めてくれればと思います)
扱いたいのは大きく2つのテーマがあって、ひとつは、歴史学者・社会学者の田野大輔氏が「ナチスは良いこともした」という言説について徹底的に批判する活動を最近されているんですね(この本とかですね→「検証 ナチスは良いこともしたのか?」)。
で、そういう歴史学的研究成果の話は面白く読んだんですが、同時に田野氏はナチス的な悪の源泉として『悪の凡庸さ(byハンナ・アーレント)』というワードを無批判に使う風潮をやたら批判しているんですよ。
例えばナチスに関する映画の評で、佐々木俊尚氏とか成田悠輔氏とかが「悪の凡庸さ」というワードを使っていることを「これは一番載せてはいけない映画評」とまで言って批判している。
『ヒトラーのための虐殺会議』の映画評に「地獄は悪魔が作るのではない。……凡人こそが作るのだ」(成田悠輔)、「アーレントの言った「凡庸な悪」がまさに具現化されたような物語」(佐々木俊尚)とあり、これは一番載せてはいけない映画評なのではとの思いを強くするなどした。
— Daisuke Tano (@tanosensei) August 19, 2023
で、僕自身はこの意見↑に対して反対で、あとで紹介しますが佐々木俊尚氏や成田悠輔氏の発言はそれ自体別に普通に穏当な映画に対する意見であって、あの程度のものまで否定しはじめるのはそれはそれで「党派的な押し付け」であり、そういうのがむしろ余計に「ヒトラーは良いこともした」的なバックラッシュが起きる感情的源泉にもなっていると考えているんですよ。
ともあれ、その後田野氏が歴史学研究者だけでなく、「思想史研究者」も交えてこのハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」という概念について議論するという本を出されて、(<悪の凡庸さ>を問い直す)、これを年末に読んだんですが…
この本は、歴史学だけでなく思想史研究者が集まってそれぞれの立場から議論していて、で、
田野氏に対して僕が反論したいなと思っていた点はだいたいこの本の中で「思想史研究者」の人たちが反論してくれていた(笑)
…のが物凄い印象的でした。
で、ここからが考えさせられることなんですが、
「田野氏型の議論」に対して思想史研究者側が反論するときに、何度も東浩紀氏の論考が引用されるシーンがあった
…んですよね。それが「もう一つのテーマ」に繋がってくる話なんですが。
田野氏とはかなり「思想的に逆」な感じですが、数ヶ月前に出た東浩紀氏の『訂正可能性の哲学』という本もかなり話題になっていて、読んだ方も多いかと思うんですが、個人的な見解ですけどライトな読者にはあの本の『意義』はあまり理解しづらいところがあるんじゃないかと思うところがあるんですね。
というのは、東氏の論考は「”今の文系の学問”に対する問題提起」を多分に含んでいるんですが、「今の文系の学問」っていうのがどういう感じか全然わからない読者には「何について誰と戦っているかわからん」みたいなところがあるんじゃないかと(笑)
(繰り返しますが”文系の学問”にも色々あるけど、”今SNSでよく揉め事になってるタイプの文系の学問”だと思って貰えればと思います)
僕もある程度そういう気持ちはあって、『訂正可能性の哲学』については発売直後ぐらいに読んでいたんですが、まあ内容については感銘を受けたものの紹介記事とか書評を書こうにもうまく切り口が浮かんでこない状態でちょっと放置してたんですよね。
ただ、田野氏が「思想研究者」と激論を交わした『悪の凡庸さを問い直す』を読んでいると、逆に「訂正可能性の哲学」の重要性が浮かび上がってくるというか、それとの対比の中で、東浩紀氏の思想や、あるいは今の『文系の学問』が抱えている問題の総体が見えてくるんじゃないかと思いました。
…というような方向性で、「田野氏のような志向性」と「東氏のような志向性」が今の『文系の学問』の中でせめぎ合っていて、そして人類社会はどうそれを扱っていけばいいのか?みたいな話を考察します。
あともう一冊、これはもうただAmazonのアルゴリズムが「あなたコレ読んだらいいですよ」って薦めてくれて全く前情報なしに読んだ朱喜哲氏の「フェアネス(公正)を乗りこなす 正義の反対は別の正義か」が凄い考えさせられたので、その話もします。
朱氏は、「人間のタイプ」としてはぶっちゃけ『田野氏側』のひとだと思うんですが(笑)、ただ世代的な問題があって田野氏的な立場の”絶対性”を信じきるのには非常に慎重なタイプと見えて、田野氏的な世界観と東氏的な世界観の間を「動的に調整して合意点を見つけていくシステムの構想」みたいなのを持っている感じでした。(その点僕が提唱している”メタ正義構想”にかなり近い感じで勉強になった)
田野氏は1970年生まれ、東氏が71年生まれなんですが、朱氏は85年生まれ、で、これ書いてる僕は78年生まれでちょうどその間ぐらいにいる感じですが、田野氏や東氏の世代においては「交わらない対立」だった問題を、下の世代になるほど「何らか統合的な視座を作っていこう」とする流れが起きている感じなんじゃないかと。
ちなみに僕はこういうアカデミックな「文系の学問」研究者とは違ういわゆる「亜インテリ」ですが、経営コンサル業の実践をしつつ、そこから得られる知見を「思想」的な形でも展開して日本社会に影響を与えていこうとしている「思想家」業もやっているという立場です。
ともあれ、まずは今回読んだ本を紹介した上で、本題に入ります(とりあえず今回の本題に関わる4冊だけ紹介します)。
● 田野大輔・小野寺拓也・香月恵里・百木漠・三浦隆宏・矢野久美子 『<悪の凡庸さ>を問い直す』
● 東浩紀『訂正可能性の哲学』
● 東浩紀『訂正する力』
● 朱喜哲『公正を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』
冒頭で紹介した、「ナチス関連の映画」っていうのはコレです。
映画『ヒトラーのための虐殺会議』オフィシャルサイト

上記サイトに、色んな著名人が推薦の映画評を載せてるんですが、田野氏が問題にしているのは以下の2つですね。
地獄は悪魔が作るのではない。 賢くマメで、タダ飯に弱く、周りをキョロキョロしながら隣の席の上司にはつい相槌を打ってしまい、後悔しても帰り道の酒で忘れるような凡人こそが作るのだ。(成田悠輔)
血も凍るような残虐きわまりない提言や判断が、なんとも官僚的で静かな会議で繰り返されている。そのギャップに戦慄した。 哲学者ハンナ・アーレントの言った「凡庸な悪」がまさに具現化されたような物語(佐々木俊尚)
先入観なしにこれ↑を読んで、賛成とか反対とか、鋭いとか普通だとか色々思うことはあると思いますけど、これが「決して載せてはいけない映画評」だとかいうほどの問題があるとも思えないというか、この程度の「言葉尻」まで全否定しまくってたら「自分の意見の仲間」を広く社会の中に募っていくなんて不可能になるじゃないかと僕個人は思いました。(そう思う人も多いのではないかと思います)
ともあれ、田野氏がこれを否定する理由を、映画評論家の町山智浩氏が以下のように補足していて…
田野さんが怒るのも無理はない。アーレントの言った「凡庸な悪」とは命令に盲従する一般人の無責任さのことだが、『ヒトラーのための虐殺会議』は平凡な人々を見下すナチのエリートたちがユダヤ人虐殺命令を下す内容。なのに成田&佐々木は凡庸さを憎むことで無意識に虐殺側に加担してしまっている。 KlAAZAH5ea
— 町山智浩 (@TomoMachi) August 19, 2023
読者の基礎知識をどの程度に見積もって書けばいいのか迷いますが、まあ人によっては迂遠でしょうがざっくり書くと、
まずアドルフ・アイヒマンという人がいて…

Wikipediaより
アイヒマンは「ユダヤ人虐殺」において非常に重要な役割を果たした存在ですが、戦後長らくアルゼンチンに逃げて存命で、その後1960年にイスラエル諜報特務庁(いわゆるモサド)に捕まってイスラエルで裁判にかけられる(最終判決は死刑)んですね。
で、その裁判についてハンナ・アーレントというユダヤ人女性の思想家
…が傍聴記録をニューヨーカーという雑誌に発表していて、そこに出てきたのが有名な
『悪の凡庸さ』
…という概念ということになります。
で!
「悪の凡庸さ」という概念は、一般的には「いわゆる”組織の歯車”的に唯々諾々と決まったことに従ってるだけでとんでもない結果を招いてしまう存在」みたいな扱いになってるんですが、田野氏らの研究によると、アイヒマンは単に「官僚機構の歯車の一部」というよりも、かなり積極的に「仕事力」を発揮して「ユダヤ人問題の最終解決」のエスカレートに主体性を発揮した存在だということが、最近の歴史学研究から明らかになってきているそうです。
だから、そういう「有能な主体性」を発揮したアイヒマンみたいな人物を「悪の凡庸さ」というような用語で捉えるのは限界があるのではないか、というのが田野氏の主張なんですね。
2. 『有能』じゃないと1100万人も虐殺したりできないというのは事実で、確かに映画「ヒトラーのための虐殺会議」を僕も見たんですが、個人的な感想としては「登場人物が凄い仕事できる感」が恐ろしい映画だったんですよね。
これは「ヴァンゼー会議」という有名な歴史上の会議を、ほぼそのまま残ってるスクリプト通りに演じた映画なんですね。
ナチスにおいても最初はぼんやり「ユダヤ人問題の解決」というのはドイツ国外に追放しちゃえばそれでいいじゃん、みたいな話だったのが、東欧の占領地にも大量にユダヤ人が住んでいてみたいな問題とぶちあたってニッチもさっちも行かなくなった結果、「いかに効率的に殺害してしまうか」みたいなぶっ飛んだ方向に「合理的な決断」が積み重ねられていってしまう。
「ヴァンゼー会議」は、その「東欧だってもう一杯一杯だし、殺すって言ったってお前1100万人を殺すのって物理的にガチで大変なのわかってる?」みたいな「現場からの突き上げ」が「ユダヤ人問題の解決」という政府方針とぶつかりあってるぐらいの状況なんですが、ドイツ人ってある意味スゲーなと思ったのは、そこで「決してグダグダにならない」みたいな部分なんですよね。
映画見たのちょっと前なので細部は忘れちゃいましたが、
「X万人殺すとしたら銃弾が最低これだけ必要だし、それだけの補給計画ができてないじゃないか」「”あの方法”ならもっと効率的に”処理”できるのでは」「運送のコストはどうする?」「こうすれば運送コストは抑えられるのでは」「ドイツ国籍持ってるユダヤ人の場合の法的な扱いについてはどうか」「それは法務省として受け入れられない」「こういう解釈なら法的整合性が取れるのではないか」
…みたいな事を、時々影の根回しとかその他を含めてどんどん「現実的に処理する手際」がかなり「すごい有能」感がありました。
佐々木氏も成田氏も(特に成田氏は)あまり「組織で働く」ってタイプのキャリアじゃないと思うので、彼らからするとああいうのはちょっと「コモノっぽく」見えるんだと思うんですが、でも実際「組織で働いてる」人から見れば、むしろ「妙に仕事できる感」が怖い映画だったと言えるように思います。
特に、縦割りの部署ごとに色々な利害関係がある中で、「解決するべき課題の定量的側面」を決してごまかさずに算出した上で、相手側の部署の利害も理解した上で話を通していく手際…とかは、「組織人としてガチ仕事できる感」がやばい。
その『仕事できる感』をものすごく発揮されてどんどん決定されていく「合理的な判断」の結果が、1100万人のユダヤ人を殺害しちゃうことだったっていうこのギャップが恐ろしいんですよね。
大日本帝国の「戦争被害」ってざっくり言うと「計画が杜撰だったこと」が原因なことがほとんどだと思いますが、ドイツ人はむしろめちゃくちゃ「計画的にユダヤ人を”処理”」しちゃった恐ろしさがあるってことが伝わってくる映画なんですよ。
これ、前も書いたんですが、日本における「イデオロギータイプ」の人間はあんまり定量的に細部を詰める能力がなくてグダグダになってしまいがちなんですが、ドイツの「イデオロギータイプ」の人間は、本人そのものじゃないかもしれないけど「定量的にちゃんと考えて現実を動かせる人間」とタッグを組める構造になってるところが彼らの美点でも怖さでもあるなと。
日本における「定量的な仕事力」を持ってる存在は自動車会社とかそういうあまり「イデオロギー色のない」ところでしか発揮されづらいんですが、ドイツの場合はその「イデオロギー的先鋭性」と「定量的な仕事力」がタッグを組んじゃう凄さ(あるいは恐ろしさ)があるというか。
このへん、以下記事で電力システムについて取材したときにも思ったんですが、「脱原発を実 現したドイツ」は「脱原発というイデオロギー」を物凄い定量的に分析して具体策を練り上げていってたけど、日本の「脱原発派(の主要な活動家)」はいわゆる「できぬできぬは工夫が足らぬ」的な感じというか、「東電と自民党が悪い」「再エネを導入しさえすれば全部うまくいくはずなのに」って言うだけだったみたいな違いを感じます。
再エネ普及は「宗教家」から「実務家」の時代へ。未だ残る大課題「電力供給の安定」を皆で考えればもっと先に進める
- 「悪の凡庸さ」問題が紛糾する本質的な理由は何なのか?
で、アイヒマンが「凡庸な悪」といっても、ただのアホじゃないことはわかったと。その上で、彼のような存在も含めて「凡庸な悪」というコンセプトにまとめてしまっていいのか?っていうのがここでの課題なんですね。
この問題が紛糾する本質はどこにあるかというと、アイヒマンを「悪の凡庸さ」と呼ぶことを拒否したい田野氏や町山氏の世界観においては、
・唯々諾々と従った歯車としての民衆や小役人=ちょっと悪 ・組織の歯車だったとはいえ「有能な主体性を発揮した存在」としてのアイヒマン=許されざる極悪の存在
…というように「悪の扱い」に格差をつけて論じたいという欲求があるんだと思うんですね。
で、ちょっとうがった見方をすれば、できれば「ナチス的現象」が人類史の中で起きてしまう原因を全部この「アイヒマン的な存在」におっかぶせてしまいたいという欲求があるのだと私は感じます。(田野氏ご本人は歴史学者として多少なりそこに慎重だと思いますが、彼の言説を持ち上げているフォロワーの中には明らかにそういう欲求があると思う)
これを読んでいる読者のみなさんはどう思いますか?
個人的にはこういう志向には反対で、これはある種の「民衆無罪論」が前提になっているというか、
「純粋な善なる被害者としての民衆」と「加害者としてのエリート」という構造を決して揺らがせたくないという欺瞞
…を含んでいるように思うんですね。
そして、今の人類社会で最も喫緊の課題みたいなものとして、こういう立場性↑の欺瞞が白日のもとに晒されつつあるみたいな流れが起きているのだと私は考えています。
もちろん、「民衆無罪論」的な前提で論理を立てることで、「エリート的立場の人間が私欲に走るのを掣肘する効果を持つ」のは確実で、そういう論理が「破壊される」ようになったらダメなんですけど。
そうはいっても「時代の流れの結果としてナチス的現象が起きてしまう」となったときに、それを「目覚めた個人」が「目覚めた個人であり続けさえすればこういう事態は防げるのだ」という発想自体が非常にアナクロな感じというか、人類社会における「個人」というものを過大評価しているところがあると思います。
いや、正確に言うと「個人」は物凄い大事なんだけど、そういう人が言う「個人」というのは「自分(と自分と同じ思想の少数の仲間)」のことしか前提としてなくて、「一億人とか八十億人とかいる他人」の分の「個人」はちゃんと想定してない感じなんですよね。
そこにたち現れる「他の個人」との間のインタラクションの問題を放置しがちというか。
「悪の権力者」と「われわれ市民」って言うとき、その「われわれ市民」っていうのは一億人とか八十億人とか実際にはいるはずなのに、そこを物凄い同質的な存在だと前提してしまっていて「その内側にこそある問題」を巧妙にスルーしてしまうんですよ。
そういう部分はむしろもっと構造主義的に見るべきというか、社会内部におけるディスコミュニケーションによる相互理解の停滞とか、現実的課題の細部が二項対立の党派争いの結果放置されてしまう非効率とか、あるいは伝統的な人心の義理の連鎖が社会を安定化させていた砦になっていた効果を軽視して無理やり破壊しようとするとか、そういう「即物的な問題について責任を持って考えない態度」が積み重なると、ある種の「全体主義」的なムーブメントに乗っ取られてしまうというように考えるべきではないか。
そして、その「知的議論と社会との間の双方向性の機能不全」が放置される苛立ちが極限に達して「全体主義的ムーブメント」が巻き起こってしまったとしたら、その中で「アイヒマン」と「小役人」との間のギャップは、「そんなものない」とまでは言わないが、それほど大きなものとも言えないのではないかと。
そういう部分で「誰か特定の個人を断罪する」ことで全部が解けるという発想を捨てていかないと、本当に「社会の中にそういうムーブメントが起きてしまう元凶」に立ち向かうことはできないというのが、今の人類社会の状況的に立ち現れている現象なのではないでしょうか。
- より具体的な話で考えてみる。
ちょっと大きな話になってきたので、具体的な話に引き戻したいのですが、例えば、今回の映画評で佐々木俊尚氏とか成田悠輔氏が批判されていた理由には、ある種の「党派性」も明らかにあると思うんですよね。
もともと佐々木氏や成田氏の事が嫌いというか彼らに批判的だった層が、田野氏の批判に飛びついてSNSでもてはやしているのをかなり見ます。
特に成田悠輔氏の「老人は集団自決発言」に対しては僕自身も批判的ではあるんですが、「彼のメッセージ」自体をちゃんと読み解くことなく印象論で批判するのはフェアではないと思うわけです
と、言う話を以下の記事で書いたんですが…
なぜ日本人の「議論」はこれほど不毛なのか?ひろゆき&成田悠輔的言論に対抗するにはレッテル貼りじゃダメ。
上記記事では、私が昔インタビューを受けた「賢人論」というウェブサイトでほぼ同時期に成田悠輔氏もインタビューされていて、そこに彼の「意見」が過不足なくまとまっている事を紹介しています。
詳しい事は上記記事を読んでもらうとして、ざっくり言うと成田氏のメッセージは、以下のような感じです。
自分もクモ膜下出血で倒れた母親の介護が大変だった時期があり、日本の福祉制度に非常に助けられた。米国だったらもっと大変で、見捨てられてしまっていただろう。 しかし、世界一の高齢化で現役世代とのバランスが崩れ、今後この制度が現行のままでは維持できない事は明らかで、どこかで破滅的な崩壊が来るよりは、意図的に刈り込んで維持可能な制度に転換する必要があるのではないか? その部分で「効率性」の基準で工夫をすることは「人間性」と対立しない。むしろ相互補完的な事であるはずなのに、日本ではむしろそこで少しでも「効率」の発想を持ち出すこと自体を排除してしまっている。みんなの介護「賢人論」における成田悠輔氏の発言要旨
これ↑を読むと、むしろ「気鋭の経済学者なりの真摯な問題意識から来る提言」っていう感じがしてきますよね?
私もこのレベルの内容には100%合意ですし、「集団自決」発言だけを切り取って「ナチスの同類」と思っていたような人でも、納得する人が多いのではないでしょうか。
で!
世界で最も少子高齢化した日本における医療システムの維持っていうのは、「思想性」とはあまり関係なく喫緊の課題として、何らか具体的に考えないといけない課題だと思うんですが、そのはるか手前でレッテル貼りしあっててもダメじゃないですか。
例えばよく批判されてる「コンビニ受診」みたいなレベルのニーズに際限なく応える体制を多少削ってでも、「高額医療費助成制度」はなんとか残そう、とか、自分たちが考える「日本社会にあるべき医療補償制度の理想」をなんとか維持可能にするために知恵を絞らないといけない課題がここにはあるはず。
「持続可能な制度設計の工夫」の話を誰もせずに、単に成田氏に「老人に●ねというのか!」とか「優生学の再来だ!」とか言って終わりにしてたら、売り言葉に買い言葉で「ああ、そうだよ●ねってことだよ!」みたいな話にもなるし、成田氏の発言のような方向性が持て囃される空気になってしまったりもする。
「そこに現に起きているディスコミュニケーション問題」の一端は、
「純粋な善なる被害者としての民衆」と「加害者としてのエリート」という構造を決して揺らがせたくないという欺瞞
↑こういう「民衆無罪説」的な構造を乗り越えることでしか解決できない。
「民衆の動き」も含めて色んな立場の人が入り乱れて議論が混乱している状況を、ちゃんと「解決する」方向に動かしていく必要が生まれる。
要するに、何やるにしても現代社会は専門家がそれぞれいるわけなんで、そこと協業しなきゃ話が始まらないわけですよね。
脱原発したければ、電力システムの専門家と具体策を練るべきだし、
日本における移民・難民問題を解決したければ、「その分野の専門家」と細かい法律問題でどういう線引きにするべきかを精査するべきだし、
「医学部入試の女性差別問題」を解決したければ「医療システム改革」にまで踏み込むようにしないといけない。
また、もっと「再分配」する経済にしたいというなら、欧米では国際的になんとか法人税率をあげようとする理論的な枠組みが育ってきているので、
そういう構造と連動することで「国際競争上実現可能な法人税率上昇プラン」を作っていかないといけない。
ここで日本では、なんか「自民党とか日本政府とかいうクズどもが悪い」っていう視点で吹き上がって終わりになりがちで、どうやったらそこに「双方向性」を持った議論が可能になるのか?という視点が欠けがちだと思います。