あと、さっき貼ったこの英語記事によると、
‘City Hunter’ manga hero drops the sexism for new live-action film
実写版のシティハンターのルールとして、
・同意なしに誰かの体に触れない ・香を無力な「助けられる存在」ではなく、強い意志を持って自ら行動する存在として描いた
…という方針を作ったそうです。
だから「反ポリコレ」ってわけじゃなくて、「ポリコレ的にこれは守りましょう」という方向性はちゃんとギリギリの線で守ろうとはしてるんですよね。
でも、「下ネタ」は全開すぎるほど全開になっていて、それが多くの「正しい」生き方はできない人への「本質的な救い」になる回路は維持されている。
なんか、ここにはこの問題の「新しい着地点」が見えてきている希望も感じるところがありました。
6. 「正しく生きられる人間という強者」が「正しく生きられない人間という弱者」を排除する構造を自覚する要するに、例えば「性加害をなくす」ことと、「下ネタをなくす」ことはイコールじゃないんだけど、解像度が低くてザツな議論をしているとイコールになっちゃうんですよね。
そして、「正しい生き方」ができている人というのはそれだけ恵まれた人生を送っている強者なんで、「トー横に集うしかない」ような生まれの人に自分たちの基準を押し付けるのは「マジョリティの横暴」的な要素があるわけで。
・「正しくない生き方」をせざるを得ない生まれの人の人生を否定せずに肯定できる ・一方で、性加害問題とか薬物とかそういう社会問題があればそれ自体をニュートラルに対策する
…という着地になるのが理想なのは言うまでもありません。
だけど、ついついこの「ニュートラルな社会問題解決」が「ある種の倫理的潔癖主義の押し付け」に転化してしまいがちな現状があって、それが余計に「本来必要だった良識の敷衍」も困難にしてしまうという問題がここ最近ずっと続いてきたわけですよね。
ただまあ流れは変わってきてる部分もあって、こないだx(Twitter)で「倉本さんにはぜひ聞いてほしいイベントなんです」って誘ってくれた人がいて、
エンターテインメント表現の自由の会
のウェブシンポジウムに参加したんですがめっちゃ勉強になりました。
弁護士の亀石倫子さんという方が登壇されていて、この人は、
・「クラブ風営法違反事件」
・「タトゥー彫師医師法違反事件」
・「風俗業のコロナ持続化給付金問題」
・「ピエール瀧氏の薬物問題で出演映画の公開差し止め問題」
とかで、
「いわゆる善良な市民」が持つ「無意識の偏見」が、「正しくない存在」を排除する方向に行ってしまうということの問題意識
※シンポジウムでの亀石さんの発言より(記憶から再生してるのでそのままではないです)
について法律で解決していこうとする活動をされてる方なんですよね。
このイベントに誘っていただいた方が、「亀石先生は”本当のリベラル”的な存在」と言っていてめっちゃ的確な表現だと思いました(笑)
で、特にピエール瀧氏の映画の話で、最高裁が
「公益というフワッした話でなく、重要で具体的な公益の毀損がない限り表現の自由の制限は許されない」という判決
…が出たことが非常に大きな「歴史的判決」的な影響があったらしい。
結果としてそれ以後、キャンセルカルチャー的なクレーム行為が何でも通る感じにはならなくなってきたのもこの判決が影響しているのでは?という話を聞きました。
要するに、
「狭義の正しさ」を振りかざして問答無用に他人の表現を排除するのは良くない
…という流れは「法律レベル」で確定してきていて、その結果として、
もっと本質的で対等なやりとり
…が可能になりつつあるんじゃないか?というのを、このNetflixシティハンター見てて思いました。
「ある表現がある一部の人にとっては不快であって”本質的な性差別を含んでいる”みたいなフワッとした話」だけで問答無用に排除できる時代ではなくなってきた事で、「性加害とか薬物とか具体的な課題」の解決は協力しつつ「自由な表現の可能性」も残せる・・・という両取りの着地が見えてきたということかな。
なんかさっきの「ほんとうのリベラル」という話でいうと、以下記事などで何度か紹介させてもらってる移民学の橋本先生もそういう感じで、「クルド人との共生に不安を持つ川口市民のニーズ」を頭ごなしに排除せずに、具体的な共生問題を考えていくことが大事なんだ、ていう精神にも共通するものがあると思いました。