1. 「キレイになっていく渋谷」vs.「カオスを許容する新宿」

    渋谷周辺がキレイになりすぎて「若者の街」でなくなったという批判を最近結構聞きますが、そのかわりにこの映画で触れられているような新宿の界隈こそが「今の東京を代表する若者の街」みたいになってる部分があるように思いました。

    なんか昔、セゾングループの元ボスの堤清二氏と、あの上野千鶴子さんの対談本っていう特殊な本を読んだことがあるんですが…

    『ポスト消費社会のゆくえ』

    若い人は知らないと思いますが、って今40代後半の自分もよく知らないもっと昔の話だけど、バブル期に向かう日本の消費社会の隆盛の中で、セゾングループ(パルコとか無印とかLOFTとか、あと百貨店の中で美術展をやったり劇場を作ったり、糸井重里氏の”おいしい生活””じぶん、新発見””不思議、大好き”といったキャッチコピーとか)の果たした役割はすごい大きかったみたいなんですよね。

    で、上記の本で、パルコを作って渋谷を若者の街にした堤さんは、後に80年代になってからなんかいわゆる「ハイセンス」っぽくない、地べたに座ってタムロしてるような若者が溜まる街みたいに渋谷がなっちゃったことについて結構イヤがってて(笑)

    この本自体は結構「一時代を築いた有名経営者に上野千鶴子が切り込む」なかなか面白い本だったのでオススメなんですが、その「渋谷が汚い若者が溢れて嫌だった」って部分はめっちゃ「ええ?そんなこと言う?」って感じでした。

    ちょっとすごい印象的だったので本を引っ張り出してきて引用しますが…

    私は渋谷に行くたびに、「あれー?僕はこんな街をつくるために、渋谷の開発に乗り出したんじゃないのになあ」と思った。最初の十年なり十五年なりは、渋谷パルコができて、どんどんラブホテルが減って、新しいビルができて、街角に明かりがついて、渋谷の街全体が一新され、自分のやったことは役に立ってるという実感が持てた。しかしこの82,3年ごろから、街が次第に汚くなっていった。これは予想外だった。自分がやりたかったことと、まったく違う事が起こってるという感じでしたね。

    ↑ちょっとさすがにひどい言いようだな、と思って昔読んだ時に僕はかなりショックだったというか、「パルコ的な文化」が牽引したとかいう”文化”がいずれ凋落したのもむべなるかな、と思ってしまったんですが。

    ただしもちろん、「ハイセンス」の居場所だってちゃんと守られてるのが「多様性」ではあるんで、渋谷はそういう「ハイセンス」寄りな方向にどんどん舵を切っていって、結果としてある意味「キレイすぎる」感じになってきた分、押し出されてしまった「カオスな若者のエネルギー」は新宿に押し出されてきているのかも?

    新宿の「世界最大の乗降客数の駅」のパワーが、「行き場のない人の居場所」を提供している流れが起きているのかも?

    いやほんと、Netflixシティハンターは、すごい「新宿の魅力」が詰まった映画でもあったと思ったんですよね。

    それが、この「下ネタあり、コメディあり、暴力あり」をちゃんとやるというコンセプトにも繋がってる感じがするというか。

  2. 「トー横」しか青春がない子の人生を肯定できるか?

    もちろん、それは歌舞伎町とか、「トー横(新宿東宝ビル周辺)」に集う色んな若い子たちの抱える問題と切り離せない話ではあります。

    ホスト狂だとか売買春だとか薬物被害とか、行き場をなくしてそこに溜まるしかない少年少女の問題とか、単純には美化できない問題があるわけですが…

    ただ、例えば

    「社会問題の対策」は必要だけど、それは「そこにそうやって生きるしかない若者」の事を否定するところから入っても実現しない

    …みたいな発想って大事だなと思うんですよね。

    まあまあ安定した家庭に生まれて、普通に登校拒否したりせず学校に通って、部活とかやって、受験もやって、大学行って・・・というのが「自分にとっての青春」のイメージの人が多いと思うけど(かく言う僕もそうですが)、それは当たり前だけど「そういう人はそうだけどそうじゃない人はそうじゃない」わけじゃないですか。

    「新宿にしか居場所がなくて集ってる子」にとっては「それが唯一無二の青春」的な要素があるわけで、それ自体を「良くないもの」として否定しにかかるのは傲慢というか、そこの先の「問題解決」にも繋がらないと思うんですね。

    「倫理的に断罪」から入るのが良くないってだけじゃなくて、頭から「かわいそうな存在」としてしか扱わないのもそれ自体やはり傲慢さがあるはず。

    薬物問題があるなら薬物問題の対策が必要だし、売買春関連の問題があればそれ自体を課題化して解決することは必要だけど、

    そこに集うしかない感じの若い人の人生自体はある程度「肯定」していく態度が必要

    …なんじゃないかと。

    「居場所がない人の居場所」を肯定できるか?っていう大問題は、トーヨコ広場をある程度警察が取り締まりをしていくとしても(それ自体は必要なことだと思いますが)残るわけで、要するに「色んな人の生き方をそのまま肯定できるか」という課題は強く残るんですよね。

  3. 冴羽獠が率先して下ネタをやりまくることで、色んな人の人生が「肯定」される映画

    Netflixシティハンターは、冴羽獠が率先して下ネタを連発する「やばいやつ」をやってるんで、そこに出てくる色んな、「四角四面の価値観からすると変な人たち」の人生も一緒に肯定されている祝福感があるのかな、と思いました。

    猫耳つけてコスプレやって、TikTokのフォロワー集めて、スポンサーつけて・・・って頑張ってる女の子の事も、その「ファン」としてイベントに集まるオタクさんたちも、まあ実際の社会ではなんかあまり「大手を振って褒められない」価値観の人も結構いる情勢にはなりつつあるわけですが、それらのすべての生き方がとりあえずちゃんと「肯定」されている優しさがあるっていうか。

    そのへんが、冴羽獠と新宿という街の度量の広さであって、その本質がちゃんと実写映像として昇華している感じなのが、鈴木亮平さんとスタッフの「シティハンター愛」のなせる技だったと言うことなのかなと思いました。

  4. 「ポリコレ」vs.「反ポリコレ」を超えて

    で、上記のように「”正しくない”生き方を否定しない」みたいな話をすると、「ポリコレ vs. 反ポリコレ」みたいな話になってきちゃうわけですが、「シティハンター」は別に「反ポリコレ」ってわけでもないんですよね。

    いわゆる「インティマシーコーディネーター」とか「LGBTQ+インクルーシブディレクター」の人とかが参加して、「ポリコレの番人w」みたいになってて監修をしてはいるみたいで。