中国の暴挙を目の当たりにしていた長兄はラサに行って、弟ダライ・ラマや政府に警告すべきと考え、中国の申し出に同意したふりをした。何の知識も持たない15歳のダライ・ラマは、共産主義者は無宗教であるだけでなく、宗教活動に反対しているとの長兄の話を聞いて絶句、残された道は外国の支援を得、中国に武力で対抗するしかないと知り、恐怖に慄いた。
斯くて法王就任式を終えた彼は、政府要人と相談し米・英・印・ネパールに使節を送って仲裁を依頼し、中国へも撤兵交渉のため代表団を派遣した。が、50年暮れに解放軍が東部で兵力を強化していると知り、首相を除く政府主要メンバーとラサを離れ、ネパールとブータンに挟まれたインド領シッキムの近いトロモへと、320kmの脱出を敢行した。その際、ポタラ宮殿の地下金庫から金銀の延べ棒など財宝を詰めた50~60の箱も持ち出した。
半年後の51年5月にチベット解放17ヵ条協定を中国と調印し、8月にラサに戻る。が、10月にラサに進駐した解放軍は3千から2万に膨れ上がった。数千トンもの大麦の拠出を求められるなど食糧事情が悪化、チベット経済は破綻に瀕し、各地で活発化した反中国ゲリラで中国との関係が険悪となった。こうして59年3月にラサを脱出し、インドに亡命するまでの約9年間は、約1年間の北京訪問を含めて、中国軍監視下のラサで奇妙な共存が続いた。
インド亡命と同時に17ヵ条協定を否認し、インド北西部のムズリーに亡命政権「中央チベット政権(CTA:Central Tibetan Administration)」を設立した。CTAは60年北西のダラムサラ(「小ラサ」と称される)に移転し、今日に至っている。『自伝』執筆時(91年)までに、インド各地のチベット村に約10万人、その他外国に1万5千人が亡命した。
現在のチベット民族の人口は、「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」のサイトに拠れば約6百万人、その生業は遊牧民が48%、交易商人と農民が32%で、人口の約20%を占める僧尼(僧18%、尼層2%)はあらゆる階層の出身者からなっている。また世界のチベット亡命政権代表部事務所は、ニューデリー、ジュネーブ、東京、ブリュッセル、モスクワ、プレトリア、パリ、カトマンドゥ、ワシントン D.C、ロンドン、キャンベラ、台北、ブラジルの13か所にある。