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『自伝』に戻る。が、それが執筆された90年まで30年間にわたる亡命生活を具に述べる紙幅はない。よって、筆者が目から鱗を落とした幾つかのトピックとそこからの教訓を記して稿を結びたい。
そもそも「ダライ」とはモンゴル語で「大海原」を意味し、「ラマ」は教師を指すインド語「グル」のチベット語で、ダライ・ラマ自身はそれを「自分が占めている職務への呼称だ」とする。「ラマ」に「活仏」を表す中国語「フォフォー」を当てたのは間違いで、チベット仏教ではある存在が何かの生まれ変わりの姿をとり得ることを認めているが、それは「トゥルク(化身)」と呼ぶ。
彼が3歳の頃、政府が派遣した新しいダライ・ラマの化身捜索隊が、お告げに導かれて彼の生地であるアムドの東端クムブムの僧院に現れた。お告げは摂政が「視た」三つのもの、即ち聖湖ラモイラツォの湖面に浮かぶ「Ah」「Ka」「Ma」の文字、紺碧屋根の三階建ての僧院、変わった形の樋のある家であった。摂政は「Ah」は「アムド」、「Ka」は「クムブムのK」と確信した。そして僧院の屋根は紺碧であり、ダライ・ラマの家の屋根には奇妙な松の枝が走っていた。
捜索隊は故十三世ダライ・ラマの遺品とその偽物とを持参していて、3歳の彼に選ばせたところ、ことごとく本物を選び、「それ、ボクんだ」といった。捜索隊は彼を「ダライ・ラマの生まれ変わり」と確信したのだった。斯くて39年2月、4歳のダライ・ラマ十四世は即位し、ラサに移り住み、6歳から本格的に法王としての勉学が始まった。
それから10年が経った50年10月、8万の人民解放軍がチベット東部カムに侵入してきた。北京は中国解放記念日にチベットの平和的開放を開始したとラジオで発表した。平和愛好のチベットでは軍への入隊は最低の生活とされ、兵士は人殺しと同様視されていたから、兵員は不足し近代的装備も訓練も無に等しかった。
英国を後ろ盾にインドが中国に抗議し、チベットも国連に仲裁を訴えたが無駄だった。そんな中、彼は2年繰り上げて世俗政権を引き継ぐことになり、お告げに従ってタタ・リンポチェが摂政を退き、彼の上級個人教師となった。その頃中国軍は生地アムドを席巻、クムブム僧院の僧院長だった長兄の活動を禁止して共産主義を吹き込んだ。彼らは長兄が弟を説得して中国の支配を受け入れさせるか、もしくは弟を殺すならラサに行かせてやろうと説いたのだった。