「はしがき」の日付は90年5月、日本語版刊行は92年1月だ。訳者山際素男の「あとがき」から更に30年余を経た今日、さすがにチベットが「中国政権によって旧態依然たる封建的農奴社会から解放」されたと思っている者は少なかろう。が、山際が書く侵略・併合の経過や民族文化の破壊どのように行われ、インドのダライ・ラマとチベット人が如何なる亡命生活を送っているか、また祖国の状況などを知る者は、筆者も含めて多くない。
第一章の書き出しを読むと、ダライ・ラマのチベット脱出は59年3月、23歳の時だった。中国は49年10月1日の国家成立直後からチベットの軍事侵略を開始した。ダライ・ラマは侵略からほぼ10年間、国民の政治的・精神的指導者として、中国との平和関係を復活させようと努力したが、それが不可能と判り、外から祖国同胞を支えようとインドに亡命した。
先般、尹大統領が戒厳令を発した韓国に北朝鮮が南侵し、朝鮮戦争が始まったのは50年6月25日だ。義勇軍を騙った中国人民解放軍は、同じ頃に北朝鮮に加勢して米軍主体の国連軍と本格的に干戈を交え始めた訳だから、毛沢東は東では朝鮮戦争を戦いつつ、西でもせっせとチベット侵略に励んでいたことになる。
35年7月6日生まれのダライ・ラマは今年数えで卒寿、解放軍が東チベットに侵入した時点ではまだ15歳の少年だ。この年に摂政タタ・リンポチェが辞任し、政治上の全権を引き継いだダライ・ラマはこの侵略を国連に提訴した。が、空しくも功を奏さなかった。
話は飛んで「今」のことになる。『読売新聞』が本年7月11日、「チベット支援の国際会議、東京で来年6月に初開催」と報じた。チベット亡命政府の立法機関である亡命チベット代表者議会の主催で、1回目の94年以降初めて日本で開催される。世界26ヵ国から議員や学者ら約90人が参加し、ダライ・ラマ14世がオンラインでスピーチするとある。
が、『読売』が載せた地図が頂けない。Wikipediaにある「旧チベットと現在の地図」に拠れば、旧チベットはチベット自治区のガリ(Ngari)・ウー(U)・ツァン(Tsang)およびカム(Kham)西半部、中国青海省のアムド(Amdo)中央部・北部・西部とカム北部、四川省西部のアムド東南部とカム東半部、甘粛省西南部のアムド東部、雲南省西北部のカム南部から成っていた。