これが単なる私催ではなく、興行として多くの見物客を集めたことは明白。
しかし、これが単なる品のない見世物だったのかと言えばそうとも言い切れず、「美しさと力強さの対比」が特筆されたことも興味深い点です。
続く明和年間(1768年頃)には、上方(京や大坂)でも女相撲が大いに流行します。
中には、力強さで知られる「板額」という名の力士が登場し、その勇姿が町人の間で語り草となるほどでした。
ところが、禁制の足音もまた速やかに迫り、この風潮は一転して抑圧される運命に。
京や大坂では、わずか数日のうちに興行が禁止されるという具合でございました。
それでも人々は工夫を凝らし、動物相手の相撲や盲人との組み合わせなど、より奇抜な形式で娯楽を追い求めました。
文政9年(1826年)の両国では盲人と女力士が土俵で交わる様子が記録され、そのユニークさはまた別の熱狂を呼び起こしました。
嘉永年間(1848年頃)には、女力士たちが美声を披露しつつ踊りまで加え、観客を沸かせる新たな形式も登場。
もはやこれが相撲と呼べるのか、という疑問を抱かせるほどに華美で、演芸的な要素が色濃くなったのでございます。
こうして時代の波に揉まれながら、女相撲という風俗は一種の娯楽として受け継がれていきました。
時に華やかで、時に物悲しく、それでもなお人々の心を掴み続けた姿は、まさしく江戸文化の一端を彩る光景であったと言えましょう。
エログロ要素はあったものの、それだけではなかった
江戸の世において、見世物女相撲がどのように成立し、人々の心を掴んだか。
その話をひもとけば、なんとも不思議で愉快、時に微妙な匂いを帯びた逸話が、次々と立ち上がって参ります。
まず、この見世物なるもの、ただ珍奇を並べれば良しというものではございません。
それが成り立つには、観客を驚かせたり感動させたりする「何か」が必須。