それに対し、バチカン教皇庁は「普遍的な教会のシステムを一方的に変更することを意味し、脅威となる」として「ドイツ教会の行き過ぎ」に警告を発した。フランシスコ教皇自身も「ドイツには立派な福音教会(プロテスタント派教会=新教)が存在する。第2の福音教会はドイツでは要らないだろう」と述べ、ドイツ教会司教会議の改革案に異議を唱えている(「教皇『教会改革も行き過ぎはダメ』」2022年7月23日参考)。

問題の核心は、教会体制でトップダウン方式かボトルアップ体制かの選択ではないだろう。独裁的な教皇が誕生するか、ポピュリストの教皇が選出されるかの問題ではないはずだ。神を信じ、人類の救済を訴える教会に神の聖霊の働きがあるか否かではないか。コンクラーベ廃止論には、一歩踏み込んでいくと、ペテロの後継者が主導するカトリック教会の終焉をもたらす深刻な問いかけが含まれている。

【コンクラーベの歴史】

コンクラーベ(Conclave)は、カトリック教会において新しい教皇を選出するために開催される会議だ。その歴史は初期キリスト教時代にまで遡る。現在のような形式に至るまでには多くの変遷を経てきた。

初期キリスト教では、教皇はローマの聖職者や信徒、時にはローマ帝国の承認によって選ばれた。 初期には信徒も選挙に参加しており、教会全体で教皇を選ぶことが一般的だった。しかし、政治の影響:時代が進むにつれ、世俗権力(特に東ローマ皇帝や神聖ローマ皇帝)が教皇選出に大きな影響を与えるようになり、政治的干渉が増した。

それが11世紀に入ると、教皇ニコラウス2世が発布した勅令In Nomine Dominiにより、教皇選出の権限がローマの枢機卿団に限定された。これがコンクラーベ制度の起源だ。選挙権は司教や枢機卿の聖職者に与えられた。

ルネサンス時代(15~16世紀)に入ると、教皇職の権威増大:ルネサンス期には教皇職が政治的にも経済的にも強大化し、教皇選挙がますます政治化した。買収と汚職:選挙活動において贈収賄が横行し、一部の教皇は強い世俗的な支持を得て選ばれた。トリエント公会議(1545~63年)で改革の要求が出てきた。教皇選挙をより霊的で公正なものにする改革が求められた。