雨が降る中、夫のピエールはいくつかの用事を済ませ、馬車が行き交う通りを横断していた際に、足を滑らせて横転し、6トンの荷物を積んだ馬車に轢かれて亡くなってしまったのです。
このとき、ピエールはまだ46歳の若さでした。
キュリー夫人は夫の死の知らせに凍りつき、しばらくは誰の問いかけにも答えられない状態だったといいます。
その後、深い悲しみが彼女を苦しめ、ときには悲鳴をあげるなど不安定な精神状態が続きました。
当時の日記には「夫と同じ運命をくれる馬車はいないのだろうか」とまで書き残しています。
キュリー夫人は30代半ばにして未亡人となってしまったのです。
それでも時がゆっくりと彼女の悲しみを和らげ、研究生活に戻れるようになりました。
そして1910年に、夫ピエールの元弟子だった物理学者のポール・ランジュバン(1872〜1946)と出会います。
ランジュバンはキュリー夫人の5歳年下でしたが、研究熱心なところが夫のピエールとよく似ており、彼女の心にぽっかりと空いた穴を埋めてくれる存在となりました。
ランジュバンは妻子ある身だったものの、その夫婦仲はとうの昔に冷めきっており、すでに別居状態にあって、裁判沙汰にまでなっていたといいます。
キュリー夫人とランジュバンは互いに研究生活を送る中で関係を深め、次第に恋仲にまで発展しました。
ところが、この2人の関係がランジュバンの妻にバレてしまいます。
彼女はこっそりと使いを送って、キュリー夫人とランジュバンがやりとりしていた手紙を盗み出し、マスコミにリークしたのです。
これはキュリー夫人を叩きたかったマスコミにとっては最高のネタでした。
1900年代初めの社会は「女性」が科学の道に進むことを良しとしておらず、優秀なキュリー夫人の成功を苦い顔で見る人も大勢いました。