私は北朝鮮の共産主義勢力の脅威から韓国を守り、国民の自由と幸福を略奪している悪徳な従北反国家勢力を一挙に粛清し、自由憲法秩序を守るために非常戒厳を宣言する。

(中 略)

私は身命をささげて韓国を守る。私を信じてください。

強調は引用者

戒厳令やクーデターと聞くと、悪辣な独裁者が強行するイメージがあるが、そうした人でも「私は既存の法を無視して全権力を握り、一切の制限なく私利私欲をほしいままにしたいので、戒厳を布告します」とは言わない。いちおうはもっともらしい言い分で、国民から正統性を得ようとする。

今回の尹氏のように、「現にこの国では公共が壊れてしまった。もはや平時から戦時への移行なくしては、再び公共性を取り戻すことはできない」といった主張がなされるのが一般的だ。たとえば世界史上の著名クーデターとして上から三指に入る、1973年9月のチリでもそうだった。

しかし、そもそもなにを以って、平時の公共は「壊れた」と言えるのか。それが戦時に置き換わるとは、どういうことなのか。

先ほどの尹大統領のスピーチの、強調箇所を見てほしい。尹氏が行っているのは、対立する相手(野党)が行っている「自分への批判」を、まず①「国家そのものの全否定」へとすり替え、さらにその理由を②「外国勢力の手先」だからだと認定する作業である。

私を批判する者たちは、実際には①私よりももっと大きく「不可侵であるべきもの」を否定しており、したがって平時の公共=民主的な話しあいでは対応できない。よって彼らを②説得も交渉も「不可能な敵」だと見なし、戦時の公共=物理的な排除で対処しよう。これが戒厳の論理だ。

……で、お聞きしたいんですけど、みなさんはこうした論理と本当に無縁でしょうか。尹氏の場合はたまたま大統領だったから、大ごとになっちゃっただけで、個人単位でソロ戒厳令みたいなふるまいを、ついついしちゃってないですか? 最近も。