毎週見るのを楽しみにしているドラマの一つが、日曜深夜にNHK総合で放映されている坂の上の雲(再放送)だ。ドラマの主人公は3人いるが、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を壊滅させる作戦を立てた秋山真之と俳句の世界に新風を吹き込んだ正岡子規がそのうちの2人で、その2人と大学予備門(その後の第一高等学校で現在の東大教養課程)で同級生だったのが、夏目金之助こと夏目漱石である。
標題にある「露悪」とは、露が悪い、という意味ではもちろんない。上記の日露戦争とか、昨今のウクライナに対するプーチン大統領の所業などを見ると、そう勘違いしたくもなるが、その真の意味は「偽善」の対義語ということである。
やや世の中全体を斜めに見て、この世に本当の善人などというものがあまりいないとすると、「環境を守ろう」とか「人権を守ろう」とか「平和が何より大事だ」と声高に叫ぶのは、それは全て「偽善(善の顔を借りて、自らの幸せを全うする立場)」ということになる。
そうした世の中全体を考えるかのような「偽善」の前に、俺たち自身の利益がまず大事なんだよ、と私利私欲を隠しもせずに露出する立場が「露悪」ということになる。
私がこの言葉に出会ったのは、今から116年前に書かれた夏目漱石の名作『三四郎』を読んでいた時で、登場人物の広田先生の立場を使って、漱石が世の中は、偽善家の時代と露悪家の時代の繰り返しだと喝破している。
そう、結論から書こう。漱石流にいえば、ついにここに至って、日本にも露悪家の時代がやってきてしまったのではないか。
繰り返しになるが、偽善家とは、表面的には「利他主義」者だ。漱石の言葉を借りれば、親とか国とか社会とかを意識した言動とは、利他的だ。一般論として、きちんとした教育を受けた者は偽善家となる。そうでないと社会に適応できない。そして利他をベースに、様々なルールが出来上がる。近現代流に言えば、CO2の排出をめぐるルール、各種人権を守るルール、恒久平和を目指して軍事的介入を押しとどめるルールなどが出来上がる。