批判を続ける複数のアカウントについて、「おそらく1人の人が運用している」と決め込むのも、理解不能だ。東野氏自身が言うように、開示請求しても通らないのだから、「これらのアカウントはみな1人がやっている」と断定する根拠は何もない。

TVの常連でも芸能ゴシップの専門家なら、多少は「どうせ、こんなオチじゃないですかぁ?」と憶測で喋っても大目に見られるかもしれないが、現実の戦況を分析する第一人者のように扱われてきたセンモンカが、こうしたエビデンス・レスな妄想で物を言う人だったとは戦慄する。

先ほどの引用でも「中傷を込めて」と東野氏が述べているとおり、東野氏は中傷という言葉の定義が、ふつうの人と違っている。メディアで自分が実際に行った発言の問題性を指摘されるのは、批判(聞き手の高橋弘樹氏の用語では「批評」)であっても中傷ではない。

彼女自身のツイートから察するかぎり、東野氏は中傷の語義を「私に抱いた悪い印象を言葉にすること」と、と取り違えているようだ。

有識者を批判するならその発言の内容に対してすべきで、容姿や性別を攻撃の対象にするのは違う、とする指摘にまで「そうすることで私の悪口を長く言いたいんだろう!」と絡む人の神経は、ふつうではない。そうした人が用いる「中傷」という言葉の定義は、かなり独特なものになっているので、起用するメディアは精査すべきだ。

中傷と同じく「差別」も、むろんあってはいけないものだが、しかし独自な定義で「差別」を勝手に認定することを認めれば、穏当な常識に沿った意見の表明まで差別にされてしまう。そうした問題がいま起きているのと、東野氏のふるまいは、まさにパラレルな関係にある。