そのためイラン文化ではこの2つの違いは西洋的な個性の違いではなく、同じものを言い換えたと認識されます。
これは、イランの「声の文化」において、旋律の記憶が書き留められることなく、曖昧な「思い出」として存在するためです。
その結果、多少の違いがあっても、同じ音楽として捉える傾向が強くなります。
一方、西洋のテキスト文化では、楽譜の違いが強調されます。
異なる楽譜は「誰かのもの」、つまり特定の作曲家や演奏者の個性として認識されます。
これにより、近代的な「作者」「作品」の概念と結びついていきます。
谷准教授は、このような音楽文化の大きな違いが、即興演奏の精神にも影響を与えていることに気付きました。
特に、「一回限り」という概念において、イランと西洋では捉え方が異なります。
西洋のテキスト文化では、創り出された即興演奏そのものが一回限りのものと考えられます。
そのため、たとえ演奏者が自覚していなくても、客観的に同じような即興演奏であっても、演奏者は「私は一度として同じ演奏はしていない」と主張することができます。
一方、イランの声の文化では、音楽を生み出す内的なプロセスがその都度新たに存在すると考えられます。
つまり、演奏ごとに心の中で音楽を再構築しており、そのプロセス自体が重要視されます。結果として、演奏された音楽が似ていても、内面的な体験が異なるため、常に新しいものとして捉えられます。
谷准教授は、これらの事例を通して、イラン音楽が近代西洋音楽とは全く異なる感覚のもとに営まれていると結論付けました。
この研究結果は、近代西洋音楽を基盤とした「作者」「作品」「創造性」「オリジナリティ」といった概念を見直す上で大きな意義を持ちます。
さらに、この研究は音楽教育だけでなく、私たちが無意識のうちに西洋のシステムに基づいて生活していることへの気づきを促します。
即興演奏の科学的な分析から、文化に根差した音楽的精神の違いにまで踏み込んだ本研究は「音楽とは何か、演奏とは何か」を改めて考えるきっかけを私たちに提供してくれています。