誰もが銅製の蒸留器を抱えていた時代です。
しかし、この黄金の時代にも欠点が潜んでいました。
他の飲み物が高価であったことと、利用が難しかったことです。
水は不潔で、ミルクは子ども用。紅茶はボストン茶会事件以降、愛国心の問題で遠ざけられるようになり、ワインはエリート専用でした。
一方でウイスキーは庶民の手に届きやすく、塩辛い豚肉を流し込むにも最適だったのです。
こうして1830年、アメリカ人の酒の年間平均消費量は約36リットルに達しました。
だが、問題は飲み方です。フロンティア精神が混じり合う中、ただ酔いを楽しむだけではなく、破滅的な飲酒文化が生まれたのです。
これにより今でいうアルコール中毒になる者が続出し、これに対抗する形で禁酒運動が始まったのは自然な流れだったのかもしれません。
また当時の酒場は売り上げ至上主義の道を突き進んでおり、決して褒められた場所ではありませんでした。
一日24時間、週7日休みなく営業するその姿は、まさに利益を追求する狂気の沙汰であるといえます。
さらに子どもへの酒の振る舞いすら行われていたのです。
この子どもへの酒の提供についてビール醸造業者協会のスポークスマンは、「子どもに数セント分の酒をおごるのは賢い投資である。その連中が常習的酒飲みになれば、何倍にもなって帰ってくるからだ」とまで語っており、未来への投資として考えられていたことが窺えます。
またその陰では、売春婦や賭博が跋扈し、時には麻薬さえも売られることがありました。
なかなかうまくいかなった酒場の追放
このようなこともあり、19世紀の半ばより禁酒法の制定を求める動きが起こるようになりました。
禁酒活動家たちが攻撃の対象としたのは酒場であり、彼らは様々な方法で酒場を排除しようとしたのです。
たとえば活動家は「文化的慈善活動」として公園や博物館、図書館、美術館など「健全な娯楽施設」を増やして、酒場の代替としようとしたものの、残念ながら都市住民の心を掴むには至りませんでした。