筆者のいた頃の高雄日本人学校は生徒の減少(ピーク時250名⇒100名)による赤字対策で、現地小学校の一棟を借りて、そこに移るという大イベントの最中だった。筆者の在勤中に校長の尽力で現地校借用の目途が付き、引っ越しは帰国後だった。が、知り合いの保護者から、給食やスクールバスの経路などのことで、しばらく相談を受けた。

給食問題は、主に約3割を占める台湾人ママの重要事だった。多くが専業主婦の日本人ママは弁当作りが容易い。が、台湾人ママには有職者が多いので、現地校の給食仲間に入るのは大歓迎。ところが日本人ママには台湾給食の味付けや調理法に懸念を示す方がいて、結局、弁当継続となった。

徒歩通学は皆無なのでスクールバスの経路も課題になった。こちらはほぼ全員車を運転する台湾人ママには大きな問題ではないが、スクールバス頼みの日本人ママには重大事だった。委員会で数ヵ月揉んだ末、何とか収まったと聞いた。高雄の治安は良好だが、保護者は主に「誘拐」を恐れていた。

筆者は台湾在勤前の90年代後半からの10数年間、即ち「バスに乗り遅れるな」の時代、中国には工場立地や子会社支援などで20回余り渡航した。主に上海、蘇州、広東省東莞市だったが、香港から東莞への通り道の深圳にも何度か寄った。その度毎に高層ビルが増える様子に眼を見張ったものだった。

当時、東莞市の常平駅駅頭には「物乞い」がおり、顔にケロイドのある子供を連れた親子を何度か見かけた。が、シュレーダー東独首相の訪中をホテルのTVが報じる頃(00年前後)には見掛けなくなった。経済成長の賜物だったのだろうが、昨今の経済不況が30年前に逆戻りさせつつあるかも知れぬ。