東部の経営者やその利益代表(地域党)は、「東部は中央政府に税金を払いすぎているから貧しいのだ」、「東部はウクライナを養っているのに、中央政府から然るべき待遇を得ていない」と論じて争点逸らしをしたのである。 この論法は東部住民に支持され、共産党から票を奪い取る上では効果があったが、ウクライナ国家の一体性という点では危険を孕んでいた。 (中 略) 地域党のドンバス支配が堅牢であるうちは、「自分たちはウクライナを養っている」という自尊心とウクライナの連邦化要求は親和した。しかし、地域党の東部支配が崩壊すると、この自尊心は分離派に利用されることになったのである。

松里公孝『ウクライナ動乱』ちくま新書 2023年7月刊、98-99頁

「平和裏な民主化」を達成した明治維新でいうと、これは徳川斉昭や松平慶永らの有力な地方支配者(大名)が、幕政への参加を要求し始めた段階に近い。この時点では、いわゆる幕藩体制自体を抜本的に覆す改革は、想定されていなかった。

政治的な弾圧や、それに反発するテロが起きても、まさか国内を二分して「内戦」を始めようとは誰も思わなかった。ところが、各地域で下級藩士が実権を握り出すと、これがいけない。一気に現体制の全否定へと、ドライブがかかる。

2014年のユーロマイダン革命、 キーウでの武力衝突 (写真はWikipediaより)

ウクライナ東部の有力者が担ぐヤヌコヴィッチ政権が、2014年のユーロマイダン革命で打倒されると、ドンバスの側でも「既存の国家体制の枠内ではもう無理だ」として、急進的な分離派の過激路線が主流となる。ご存じのとおり、ロシアによるクリミア併合が起きたのも、このときである。

しかしプーチンは、2014年にはドンバスへの本格介入に消極的で、現地勢力が企図した「独立」への住民投票にも延期を勧告した。なぜか。

その最大の動機は選挙である。 (中 略) クリミアに加えて、300万票から500万票のドンバスの親露票(人民共和国の実効支配領域の広さによって増減)がウクライナから消えたとすれば、ウクライナ大統領選挙では〔、〕ウクライナのNATO早期加盟を掲げるような候補しか勝てなくなる。 したがって、「クリミアはとったがドンバスはウクライナに押し戻す」というのが、ロシア指導部にとって最も旨味のある政策だったのである。