これはもう、ごもっともと言うほかはない。なので例のごとく、来月の月刊誌あたりから、同じ論調をコピペして「正しい発言」をした気になるセンモンカが、この国でもわんさか出るだろう。
はっきり言っておこう。そんなことに今さら気づくのは遅いし、なによりその見方は浅い。
人間は、そもそも「ダブスタを生きる動物」なのだ。その自覚抜きに「ダブスタが悪かった」なんて言っても、それ自体が口先だけの、新たなダブスタになる。
なぜヒトはダブスタを生きるかというと、「身体と言語」の双方に跨って、矛盾を抱えながら暮らしているからである。そのことを、最初のトランプ当選についての分析も含む、『知性は死なない』(2018年)で前に書いた。
たとえばホームレスがあなたの家をノックして、「あんたら一家は贅沢しすぎだ。食事を一品ずつ抜けば、そのぶん俺が一食たべられる。そうしないのは偽善だ!」と言ったとする。理屈としては通っている。では、言語で説得されたあなたはふむふむと納得して、彼に奢ってあげるだろうか。
もちろん99.9%の人はそうせずに、警察を呼ぶ。いくら社会的な平等が大事でも、身体的な近接感が作り出す共同性(この場合は家庭)の内外で、ケアの多寡を使い分けるのは、誰もがやっていることだからだ。
この意味では言語と身体のダブスタを、私たちは日々に生きている。逆にいうと言語か身体か、片方の「シングル・スタンダード」に統一しようとしたくなったら、それは日常が壊れてヤバい世界に陥ることの徴候だ。
”The personal is the political” (個人的なことは政治的なこと)とは、ふだんは身体でのみ体験する自明な日常について、いちど言語を経由して考えなおそう、とする標語だった。その初心を忘れ、言語の論理で身体を圧殺するのが「政治的に正しい」と思い込むと、グロテスクなことになる。