三笠宮家には三男二女があり、孫世代では9人中6人が女性で、しかも男子が三人いるにもかかわらず、5人の内孫が全員女王だったことが、皇位継承者が不足する主要な原因のひとつだ。
長男の寬仁親王(1946~2012年)は「ひげの殿下」として知られている。未成年のときから酒やタバコをたしなみ、交通事故を起こしたこともある。オックスフォード大学留学後、ラジオのパーソナリティを務めた。「皇籍離脱宣言」をして昭和天皇から苦言を受けたこともあった。
皇室典範改正が話題になったとき、控えめながらも反対の立場を取り、一方的な議論の展開に歯止めをかけた。このころ、有識者会議の吉川弘之座長が「皇族の意見を聞くのは憲法違反」といった極端な意見を述べたり、朝日新聞が社説で「寛仁さま、発言はもう控えては」と書いたりした。こういった問題については、最終決定は国会と政府にあるが、少なくとも利害関係者として皇室の方々の意見を聞くのは当然であり、その対象が天皇陛下だけというのはおかしいと思う。
また、皇族に言論の自由があるかについては、いかなる公的なポストにある者もそれに応じた制約は受けるべきだが、逆に、皇族方も立場に応じた範囲で私的な発言を否定する必要はなく、天皇陛下や皇太子殿下など直宮よりも制約は少なくてよいと考える。その意味で、晩年の殿下の発言は肯定的に見ていた。
三笠宮寛仁さまの妃である信子さま(1955年生まれ)は、麻生太郎元首相の妹で、聖心女子学院中等科からイギリスの花嫁学校に留学した。松濤幼稚園に英語講師として勤めていた。
16歳のときに殿下から求婚されたが、26歳で結婚した。料理が得意で本を出版したり、殿下と一緒にテレビに出たこともあるが、2004年に一過性脳虚血の発作で倒れ、軽井沢で療養して公務はあまり行わず、晩年は東京で別居していた。
娘たちは父親の影響を受けており、殿下の死後に戸主の地位をめぐる対立があり、困った宮内庁はまだご存命だった三笠宮殿下の家に属する形を取った。