こうした誤報も単純に擁護はできないが、まだ理解可能な範囲だ。なぜなら、記者は足元の取材という地道な仕事を疎かにしていない。結果として間違ってしまったことは重大だが、過程に大きな間違いはない。

逆にもっと程度の低い誤報もある。相手の言っていることを理解できず、勘違いしてしまったまま記事にしてしまった、あるいは聞き間違いや誤字があったというものだ。私もやらかしたことがある単純なミスでも誤報は誤報だが、比較的再発防止策はとりやすい。

私が誤報の中でもっとも恥ずべきだと考えているのは、偽情報に飛びついて取材をするという基本を怠ったまま掲載されてしまう誤報、つまり今回の毎日新聞がやってしまったパターンだ。

「誤報」といっても種類があるということはその通り。

メディアの記者を政局のために利用しようとする政治家や活動家によって振り回される、ということはあるでしょう。ただ、そのために「組織」があり、多数人の眼を通して得た証言と多角的な視点から穏当な事実を浮かび上がらせることができる。この強みが報道機関の価値の中心であるということも、石戸氏は指摘しています。

あらためて言うまでもないが新聞の武器は要所に張り巡らされた取材網にある。ウェブは一報以外の記事の価値、動画配信も含めて取材しているからこそわかる記者の言葉にもより価値を与えるメディアでもある。

ネットも無価値ではないということも指摘しています。一報以外の記事の価値、要するに事実を掴むことの次にある、「事実を正しく認識し、或いはより重要な問題意識の下に当該事実を捉え、行動に繋げること」に寄与する言論があり得る。

この点に関して、最近話題の事件として例えば兵庫県斎藤知事の下に届いた告発文書と言われる怪文書について、作成者の特定と懲戒処分をしたことが問題視されている事案がありますが、公益通報者保護法に照らした理解が歪められており、当該怪文書の内容が既にWEB上でも公になっているにもかかわらず、到底あり得ない理解がテレビ放送や新聞等で横行していました。