歴史学者だった頃から指摘してきたけど、日本には前近代(正確には徳川時代)から、もともと世俗社会だったところがある。なので、本来の文脈ではなんらかの宗教性を帯びていたものでも、しれっとそこを切り捨てて受け入れたりする。

神の栄光を ”Glory, Glory, Hallelujah!” と歌い上げるところを、「新・宿・西口・駅前と、」と店舗の所在地に変えちゃって、平気なのである。日本では讃美歌も、まさしくチンドン屋になるわけだ。

替え歌ならそれでいいけど、これが民主主義のような政治体制に及ぶと、大ごとである。個人の欲得ずくや面白がりを超えた、なんらかの聖性や崇高さを失ってしまえば、選挙は文字どおり、チンドン屋どうしの集客合戦そのものになるだろう。

トランプを敬虔だと形容する人は(日米ともに)誰もいないが、それでも福音派を票田にできるほどには、私は神聖なものを信じていますというふりくらいする。おそらくそれが、すっかり壊れてしまった米国の民主政にとって、最後の歯止めになっている面はあるだろう。

逆にいうと、赤裸々な世俗の欲求を抑えるそうした装置を持たない、日本の民主主義が、史上最低の中傷合戦とも呼ばれた今回のアメリカ大統領選をも下回る、純粋なポピュリズムに陥る懸念はけっこう高い。そう自覚する政治家や有権者が、いまどれだけいるかと、強い危惧が胸をよぎる。

(ヘッダーは産経新聞の記事より、ラスベガスの集会でまさかの「Y・M・C・A」を踊るトランプ)