『デモクラシーの現在地』216・262頁 (強調は引用者)

いやぁ、しかし、じゃあもう世界のどこでも「民主主義ってチンドン屋のお祭りっすよ?」でいいんすかねぇ……と思い悩むうちに、霊感が降りてきた。トランプ現象の歴史的な読み解きとして名高く、このnoteでも先日ご紹介した、森本あんり氏の『反知性主義』に書かれていた話だ。

資料室: ポリコレは、いかに「歴史学と反差別」を弱体化させたか|Yonaha Jun
一昨日の辻田真佐憲さん・安田峰俊さんとの配信は、議論が「歴史を語る際のポリコレの流行は、ある意味で欧米の中国化では?」という地点まで深まって面白かった。無料部分のYouTubeもこちらにあるので、よろしければ。
【ゲスト回】安田峰俊×與那覇潤×辻田真佐憲「実は役立つ中国史を再発見せよ 『中国ぎらいのための中国史...

お祭り的な熱狂状態で、政策を論じる理性を麻痺させて投票先を決めちゃうのは、ふつうに考えて悪い意味での反知性主義である。だけど、それを民主主義が不可避的に持っている、市井のおっちゃん・おばちゃんでも力を合わせればエリート連中より強い! といったよい意味での反知性主義と、スパッと切り分けるのはなかなか難しい。

『反知性主義』はキリスト教の集団覚醒と、米国での民主政の展開を関連づけて書いているので、聖歌の話がよく出てくる。特に印象的なのが「リパブリック讃歌」で、曲名だけではなんのことやらだけど「実は、この曲は日本の大手電機製品販売チェーン店のテーマソングに使われているので、多くの人が耳にしている」とある(250頁)。

……はい。そうでした、この歌ですね。

「えっ、それって聖歌だったの!?」と、最初はびっくりするけど、よく考えるとそこはお互いさまで、アメリカ人には「なんで勝手に安売りソングにしてんだよ(怒)」という感じなんだろう。

実際、『反知性主義』でしばしば言及される映画の「エルマー・ガントリー」(1960年)のように、ハイテンポの行進曲調で歌われるとヨドバシに近くなるが、聖歌らしくむしろ重厚・荘厳に演奏されることもある。