10月29日から30日にかけてのバレンシア市内とその周辺の都市を襲った豪雨によってもたらされた洪水で、多くの均衡都市は破壊され、200人を超す死者を出してしまった。行方不明者がまだ多くいることから死者の数はこれからさらに増える見込みだ。300人は超すと予測されている。洪水によってこれだけ多くの犠牲者を出したのは初めてのことだ。
バレンシア市内も豪雨に見舞われたしたが、被害を最小限に留めることができた。その理由は、1957年10月の豪雨による洪水で甚大な被害をもたらし、81人が亡くなったことが要因としてある。それまでもしばしば洪水によってバレンシア市内は氾濫することが容易に起きていた。このような災害を再び繰り返さないように、当時のフランコ将軍の指示で市内を流れるトゥリア川の水路を4年間の工事で南に方に移した。そのお陰で、今回の豪雨にも拘わらずバレンシア市内は洪水から逃れたというわけだ。
バレンシア市内を流れる川の水路の変更が近郊都市の災害を大きくしたところが、今回の被害はその水路を南の方に移したというのが間接的に影響した。何しろ、そこから比較的に近かい距離に複数の衛星都市が存在しているからだ。これらの衛星都市では上述した新しい水路からの多量の水がそれぞれ各衛星都市を流れる支流の水高を高めた。それで路上などに泥を交えた水が氾濫する事態を生んだのである。最も被害を被った都市パイポルタ市では水高が3メール近くまで及んだ。
しかし、これだけが理由で今回の甚大な被害と多くの死者をもたらしたのではない。その理由を以下に説明する。
甚大な被害をもたらした複数の要因とは中央政府は29日の午前10時頃に、豪雨による影響でバレンシ市とその近郊都市を流れるフッカル川、トゥリア川、マグロ川の水高が通常よりも2000%上昇する可能性があるという情報を掴んでいた。ところが、それをバレンシア州政府に即時に伝えなかった。それをバレンシア州政府に伝えておれば、甚大な被害を避け、多くの死者を出さなくて済んだはずだだった。そうであれば避難するのに十分な時間があったからだ。