『ウクライナ戦争』93頁 (強調は引用者)

歴史のトリックというものがあって、起きてしまった後にはすべてが必然で、理由があったかのように見える。ウクライナ戦争なら、開戦の後になって「ロシアはもともと悪辣な国で、交渉可能な相手と見なすべきではなかった」みたいに言うことは、特に専門家でなくても誰でもできる。

そうした凡庸極まりない想像力を、「そうそう。それで別にいいんです」とメディアで撫で回し、あたかも自明に正しいかのような空気を作ってあげるのが、専門家ならぬセンモンカのお仕事である。私はそれを民意ロンダリングと呼んだが、ボードリヤールはより辛辣に、こう書いている。

とはいえ、バカらしさにもいろいろある。大量殺戮のバカらしさと〔、〕大量殺戮の幻想の罠に陥ることのバカらしさは、べつのものだ。ラフォンテーヌの寓話のような話だ。 ほんとうの戦争が起こったとき、あなたは戦争の幻想と区別することさえできないだろう。戦争のシミュレーターたちの真の勝利は、すべての人びとをこの堕落したシミュレーション中に連れこんだことのうちに存在している。

『湾岸戦争は起こらなかった』90頁 塚原史訳(段落を改変)

「ほんとうの戦争」と「戦争の幻想」は、いまも続くウクライナでの戦争に則した場合、どこが違っているか。

先月の末、篠田英朗氏の「ウクライナ国内に残っている人は、ほとんど負け組」とする表現が、賛否を呼ぶ事件があった。発言に至る元来の文脈は、以下のツイートからたどることができる。