フランスの現代思想家だったボードリヤールに、『湾岸戦争は起こらなかった』という有名な本がある。原著も訳書も1991年に出ているが、お得意のシミュラークル(いま風に言えばバーチャル・リアリティ)の概念を使って、同年に起きたばかりの戦争を論じたものだ。
ボードリヤールは当初、「戦争になるかもよ?」というブラフの応酬に留まって本当の戦争にはなるまいと予想して、外した。しかし、その後に生じたのも「本来こうあるべきだった戦争」とはだいぶ違う、別物ではなかったか? その意味で、(彼が定義するところの)戦争はやっぱり起きてはいない、と主張して、一冊にまとめたわけである。
筋を通したと呼ぶか、厚かましいと見るかは、人それぞれだろう。しかしこの挿話、今なお続くウクライナ戦争を見る上でも、示唆が深い。
多くの人が忘れているが、2022年の2月に露宇国境で緊張が高まった際には、ロシアを研究する専門家ほど「プーチンは圧力をかけた上で、寸止めで妥協を引き出し、戦争はしない」と予想した。
湾岸戦争前のボードリヤールと、ちょうど同じだったのである。定評のある『ウクライナ戦争』(刊行は22年12月)で、小泉悠氏もこう書いている。
「今回の事態の落とし所は、ロシアが軍事的圧力によって第二次ミンスク合意をウクライナに呑ませるということになると思います」 筆者がテレビ番組のオンライン・インタビューをそう締めくくった翌日、全てが間違っていたことが判明した。2月21日、……プーチンは、ウクライナ東部の自称「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」を正式に国家として承認することを決定した〔侵攻開始は24日〕