帚木著はもともと話題書だったが、2020年以降の新型コロナウィルス禍で、いっそう注目を集めた。ぼく自身、直接にコロナを論じた『歴史なき時代に』に収めた開沼博さんとの対談で、当時詳しく言及している。
ところが、実際に佐藤さんの『あいまいさに耐える』を開くと、そこに留まる議論ではないことがわかる。「ネガティブ(消極的)なリテラシーも要るよね」というだけではなく、ひょっとしたら識字能力自体にネガティブ(マイナス)な側面があることを、示唆しているからだ。
同書の末尾に再録されているのは、23年に文庫化されたR・ホガート『読み書き能力の効用』の解説である。タイトルだけ見ると、識字教育は大切だ的な「いかにも」なメッセージを連想するけど、ほんとうはその逆が描かれていたことに、佐藤さんは注意を喚起する。
ホガートより一世代上で同じく「奨学金少年」だったD・H・ロレンスが、哲学者フリードリヒ・ニーチェを信奉して「読み書き能力の弊害」を説いたことも想起すべきだろう。ニーチェは「読むことと書くことについて」(『ツァラトゥストラ 上』ちくま学芸文庫・1993年)でこう述べている。
”誰もが読むことを学んでよいということになれば、長いあいだには、書くことだけではなくて、考えることまでも腐敗させられる。”
ニーチェの箴言を踏まえて、ロレンスは「すべての学校をただちに閉鎖せよ」と主張した。文字を読めないほうが下劣な大衆読物や日曜新聞の悪影響から労働者階級を守ることができるというのである。
佐藤著、197頁 改行と強調、引用符は今回付与 数字も算用数字としました