政党がメディアの創り出す空気を意識してダメージコントロールのために迎合的になるのは、ある程度は仕方がない。それだけメディア権力=メディアによるアジェンダセッティングの力、報痴主義が強すぎる。
それに否応なしに対応しようとした結果の「非公認」(この対応自体を問題視するのは有りだが、憲法上の二重処罰禁止や一事不再理効の問題ではない)。メディアや世論からの見え方を気にするこれまでの自民党の方針からして疑問を感じるのは理解できますが、その延長線上の話で、国民代表を送り出す政党・政治家の側を非難するのを対立候補や党内政局とも無関係な人がやるのは、どうなの?と。マスメディアや政局に基づく印象論に、自分の思考を左右されていいの?という問題だと思います。
岸田路線が嫌だったり石破や石破を勝たせた岸田が嫌だ、と思っている自民党員や支持者は突っ込みたくもなるでしょうが、メディアが流れを作ることそれ自体の問題、しかもこれ対立政党の機関紙が発端というのは民主主義にとって望ましい在り方なんでしょうか?国民の認識が引き摺られて良いんでしょうか?「非公認とした意味が無く、一貫性が無い」という批判が公約数的ですが、この話は最初から極めて「政治の判断」の領域で、一般社会の一般的なロジカルな話とはかけ離れた所の、メディアや外からの見られ方という虚数次元。そこに実数的な正しさをどこまで求めるべきなんでしょうか?もっとメディアからの見た目を気にしろ!と要求するんでしょうか?そんなことをしていったら、どんどん政党の取れる行動の幅が狭くなっていくでしょう。他党の党首とかはこれを奇貨として自民党を非難していますが、選挙なんでこれくらいはよくある事だろうと思ってます。党首は候補者の人生を背負ってるわけで、当選の有無で人生が変わる。だから彼らの当選に繋がることは何でもやる。というのは大前提として、そういう目先の利益とは別に、より根源的なところでの政党の価値を毀損してやいないか?というのは、心に重しとして持って頂きたいなとは思っています。それって後々に跳ね返ってきませんか?共産党+マスメディアに乗っかる言論空間、あんたのとこがされたらどうなんですか?と。
共産党に思考のイニシアチブを奪われた「ステルス公認・偽装表示」という現実無視