つまり、最終的にどんな小説になるかは不明なまま、毎日ちょこっとずつ順々に読者は読んだはずである。同じように、先入観なしでページをめくってゆくと、あることに気づく。
代助が三千代を「かつて愛していた」のか、本当はよくわからないのだ。
主人公の代助は冒頭から、一貫して軽い「うつ」的な心身の不調に悩まされている。なぜ俺はこうなんだ、と自問自答するうち、親友の平岡の妻になった三千代のことを実はずっと好きで、彼女のいまの不幸が耐えがたいからではないかと、後になって思い始める。文庫で言うと、本文の終わりがp.344のところ、なんとp.277である。
『門』でも、訳あり気な主人公夫婦の過去は、(文庫の裏表紙には書いてあるが)だいぶ後まで明かされない。しかし『それから』の場合、代助の主観をなぞる形で進むので、ここで彼が見つけた「うつの原因」(三千代への愛)がファクトなのか、単なる感想かははっきりしない。
それでは、本当のうつの原因はどこにあるのか。代助自身でなく私の診立てでは、彼が明治のガチャ問題に気づいてしまったことだと思う。
代助はいまで言うと実家が極太のニートで、父は旧藩で家老だったと思しき士族、いまは兄が会社を継ぎ実業でも成功している。戦前の日本はスーパー格差社会だったので、代助クラスのニートは子供部屋に住むどころか、すべて実家持ちで別に一戸建てを借り、お手伝いのお婆さんのほか書生まで置く3人暮らしである。すげぇ。
もっとも大学(おそらく東京帝大)を出たインテリで、頭はいい。たぶんそれまでは、勉強もめっちゃ努力したと思う。だけど、それだけ色々考えた結果、彼は「あること」に気づいてしまう。
父も兄もあらゆる点に於て神聖であるとは信じていなかった。もしやかましい〔汚職の〕吟味をされたなら、両方共拘引に価する資格が出来はしまいかとまで疑っていた。それ程でなくっても、父と兄の財産が、彼等の能力と手腕だけで、誰が見ても尤(もっとも)と認める様に、作り上げられたとは肯(うけが)わなかった。