ということは、農業の技術指導もしていたはず。そして、吉備のイネのDNAは、日向と同じ「c」(黄色の丸)なのです。
前述したように、この「c」というタイプは日本では珍しく、吉備の近くには見当たらないため、単なる偶然の一致とは思えません。このことは、神武東征では、日向の籾を吉備に運んで栽培した可能性を示しています。
そしてまた、当時の西日本の水田稲作で使われたのは「遠賀川式土器」です。神武東征の途中では、なぜか大和とは逆方向の西に進路を変更し、わざわざ筑紫・岡田宮に寄港しています。理由は、この遠賀川河口の積出港で土器を大量に調達して、「c」の籾とセットで吉備に持ち込んだということでしょう。
デジタル地図で見る神武東征現在では、これまで考古学の多くのデータがデジタル化され、ビジュアル的に分かりやすく表示することが可能になりました。
弥生時代の近畿地方を象徴する青銅器に「銅鐸」があります。この分布は、デジタル地図で見ると極めて分かりやすいです(図6)。
対して、弥生時代の北部九州を代表する青銅器は「銅剣」「銅戈」「銅矛」です(図7)。
『日本書紀』には多くの「剣」に関する記述があり、「草薙の剣」は三種の神器にもなっています。言い換えれば、北部九州の「銅剣」の伝統は、大和朝廷に受け継がれていることになるわけです。
しかし、かつて近畿地方で大いに使われていたはずの「銅鐸」については、『日本書紀』にはなぜか一切記述はありませんし、現在でも何のために使われていたのかも不明とされます。もちろん、大和朝廷の伝統にもありません。
これらのことは、弥生時代の末、北部九州の勢力が近畿まで遠征し、地元勢を打ち破って大和朝廷を樹立したことを象徴的に示しています。