『日本書紀』によれば、日本建国の経緯は次のとおりとなっています。
神武天皇は、日向の美々津(みみつ)を出航して大和に到着。先住民の長髄彦(ながすねひこ)との最後の決戦で、邇藝速日命(にぎはやひのみこと)の助けを得て勝利することが最初のステップです。
その後、神武天皇は畝傍(うねび)山のふもと橿原(かしはら)に都を定め、即位の礼を執り行なって初代天皇になった、とされています。
しかし、戦前ならともかく、令和の現在なら、日本建国は一字一句このとおりだった、と信じている人はいないでしょう。
八本足のカラス「八咫烏」(やたがらす)が道案内し、「金鵄」(金色のとび)が神武天皇の弓に止まってまばゆい金色の光を発し、敵は目がくらんで降参…はもちろん、「日向の美々津を出航」も疑っている人も多いと思います。
そもそも、大和朝廷の始祖が、なぜ九州からはるばる大和まで遠征する必要があるのか…まったく意味が理解できません。もちろん、私もそうでした。
しかし、考古学的な知見や、前回説明したイネのDNAなどから考えると、この神武東征や日本建国の物語は基本的に正しいようです。
そんなバカな!という疑問は当然ですから、これから順を追って説明します。
神武東征の寄港地には大規模な前方後円墳があったさて、大和朝廷スタート時のシンボルは何でしょう?
代表的なものとしては、巨大な行燈山古墳(伝崇神天皇陵)や、世界最大の陵墓である大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)が挙げられます。
これらの巨大古墳で目を引くのは、「前方後円墳」という極めて特徴的なその形です。方形□と円形○が合体しているように見えるため、こう名付けられました。
では、最初の前方後円墳はどこにあるのでしょうか。言うまでもなく、あの有名な大和の箸墓古墳で、だからこれ以後は「古墳時代」と呼ばれます。なにしろ、「古墳時代」の別名は「大和時代」とされるぐらいですし、ここまでは割とよく知られている話です。