また歴代の中国の皇帝は「朕」に加えて「吾」という一人称代名詞を使いました。

さらにローマ皇帝はしばしば自分を示す際に「Nos(我々)」という複数を意味する代名詞を使いました。

これは「威厳の複数」と呼ばれる代名詞であり、文法書にも記されているのを見たことがある人もいるでしょう。

イギリス王室においても女王や国王が公式声明を行う際には、自分自身のことを「We(我々)」と「威厳の複数」を用いていることが知られています。

日本で社会的地位のある女性をしばしば「女史」とするのも、ある意味で特別な女性であることを意識させるための表現であると言えるでしょう。

重要なのは、このような特別感の付与は、敬称では上手くいかないものの、代名詞ならば可能だと言う点にあります。

自分で自分の名前に「様」や「殿」「女史」「博士」などの敬称を付けるとかなり愚かに聞こえますが、特別な代名詞を使うと、愚かさを回避しつつ凄みを出すことが可能です。

ただ朕やweのような特殊な代名詞を使用するには、周囲の人々との間に一定のコンセンサスが必要になります。

コンセンサスがない状態での特殊な代名詞の使用は、社会的に不適格だとみなされてしまいかねません。

たとえば子供の頃に、自分を偉ぶって「朕これからゲームする」と言ってしまった人もいるのではないでしょうか?

あるいは友達に対して、これからは自分のことを「教授」や「陛下」と呼ぶように強制した人もいるかもしれません。

実態の伴わない代名詞ほど惨めなものはないでしょうが(特に朕や陛下)、怖いもの知らずの幼い子供は、ついつい使ってしまうのかもしれません。

このように代名詞には「効率化」だけでなく「特別感の演出」という役割があることがわかります。

そう考えると、代名詞とは実に奥深いものであることがわかります。

ですがそれでも疑問は残ります。

なぜ人類はこうも、代名詞を巧みに扱うことができるのでしょうか?