牧原法相は、旧統一教会との関係が衆院本会議や記者会見で追及され、選挙支援を受けていたことや、教団や関連団体の行事に少なくとも10回出席したことを認めおり、そのような問題を抱える法相が、凡そ理由にならない理由で畝本総長談話を擁護したことで「検事総長批判」にさらに燃料を投下する結果になりかねない。

検察に対する批判・不信は、2010年の村木厚子氏に対する冤罪事件と証拠改ざん事件以来の深刻さだ。

畝本総長談話には、どういう問題があるのか、牧原法務大臣はどう対応すべきだったのか。それらを検討するためには、改めて、検察という組織が本来果たすべき職責、そして、法務大臣と検察との関係について、根本的に考え直してみる必要がある。

検察の「権限行使」について、誰が責任を負うのか

憲法第65条第1項では、「行政権は、内閣に属する」と規定されており、内閣は行政権の行使について国会に対して連帯して責任を負うとされている(内閣法第1条第2項)。

検察権も行政権の一つであり、検察庁も法務省に属する行政組織である。検察権の行使についても、内閣が国会に対して、そして最終的には国民に対して責任を負う。そして、国民を代表する国会で選ばれた内閣の一員として、検察権の行使について責任を負うのが法務省の長たる法務大臣である。

刑訴法上、検察官が公訴権を独占し、訴追裁量権を持つ日本の刑事手続において、刑事事件に関して検察が極めて強大な権限を有しており、日本の刑事司法の下では、検察の判断は、事実上、裁判所の司法判断に近いものとなっている。それだけに、「司法権」の行使に直結する検察の権限行使については、裁判官の独立と同様に、検察官個人としての独立性と、検察組織としての独立性が尊重されている。

が、内閣の一員である法務大臣と、内閣から独立して「法と証拠に基づいて権限行使を行うこと」を使命としている検察との関係については、微妙な問題がある。