本居宣長はもともとは小津姓で、伊勢の商家の生まれである。父と、後継者の義兄が相次いで急逝し、本来なら家業を継がなければいけないのだが、学術肌の本人にはビジネスの適性がない。

結局、京都に遊学して医者となり、副業で古典研究を営むが、自分で調べて元は本居姓の武家が出自であり、商人の小津家へのジョブチェンジは、夫を戦死で亡くした妻が妊娠中に出奔したためだと突きとめる。「じゃあ俺もジョブチェンでいいジャン!」という、執念の調査レポートである。

また先崎さんが重視するのは、国語学者の大野晋が唱えた「宣長恋愛説」だ。宣長は京都時代、友人の妹(草深民)に一目惚れしたのだが、彼女は他に嫁ぐ相手がいたので、諦めて別の女性と結納を済ませた。

ところがそのわずか半月後、民の夫が死亡する。こんなボタンの掛け違いというか、夫婦ガチャの出間違いは許さんぞとばかりに、宣長は婚姻生活3か月でさっさと妻を離縁し(!)、2年後に民との再婚に漕ぎつける。

江戸時代には職業も結婚も、個人ではなく「家」のものだった。宣長はそんな家ガチャで人生が決められることに我慢ならず、自分の運命を自分で選ぼうとした。その意味で宣長は本来、「保守派」とは正反対だったのだ。

これに通じる文学者を、個人的には他にもうひとり知っている。三島由紀夫である。橋本治が、その三島論でこう書いている。

三島由紀夫にとって重要なのは、「欲望」ではなく、「意志」である。それがありさえすれば、〔小説『禁色』の台詞のように〕男は冷蔵庫とでも結婚出来るのである。 「冷蔵庫と結婚しておもしろいか?」という問いは、もちろん三島由紀夫には存在しない。 おもしろいかどうかは、結局のところ、彼にとっては「意志」の問題で、「“おもしろい”と思え」という命令が下れば、彼の意志は「おもしろい」と思う。それだけのことである。

橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』 新潮文庫、239頁 (強調を附し、段落を改変)