歴史というのは後からふり返って綴るので、執筆時の価値観を前提に「こいつ、ダメ」とやっちゃうことはつい起きがちだ。だけどそう書く人だって、やがて自分が歴史に登場する際には、「古くてダメ」な存在になる。あるいはポリコレ的なNo Debateで、存在自体を抹消される。
そんなことを繰り返すだけなら、歴史に意味なんて、あるだろうか。
資料室: ポリコレは、いかに「歴史学と反差別」を弱体化させたか|Yonaha Jun
一昨日の辻田真佐憲さん・安田峰俊さんとの配信は、議論が「歴史を語る際のポリコレの流行は、ある意味で欧米の中国化では?」という地点まで深まって面白かった。無料部分のYouTubeもこちらにあるので、よろしければ。
【ゲスト回】安田峰俊×與那覇潤×辻田真佐憲「実は役立つ中国史を再発見せよ 『中国ぎらいのための中国史...
なので『平成史』の記述のうち、自分にとっては「いまも、いいなぁ」と思う福田和也さんの姿勢に言及した箇所を、引いておきたいと思う。改めて、ご冥福をお祈りします。
そもそも1990~91年に『諸君!』に連載された論壇デビュー作「遥かなる日本ルネサンス」で、福田さんは戦後日本の情報社会論の元祖でもある梅棹忠夫(文化人類学)の機能主義を、こう批判していたはずでした。
「系譜論」から「機能論」へと転換することで、〔明治以降の知識人が陥った〕西欧へのコンプレックスを拭い去った梅棹氏は、同時に、日本論という日本への問いから、「日本にたいする特別の執心ぶり」を、つまりはアイデンティティの問いのもつ愛憎と葛藤を消してしまった [1]。
たとえば近代社会というとき、系譜(=歴史)をたどって思考すると「西洋ではない日本は近代たりえない」という、重いジレンマが発生する。しかし機能主義で考えるなら、舶来の技術を輸入し、西洋近代と同様に日本の社会が動いている(=機能している)なら、もうそれで十分であって、ルーツをたどって煩悶する必要なんてない。