たとえば、①「昔はひどい差別があったこと、知っていますよ」という人にケアされて、先人たちがそれを乗り越えて、自分はいまこの社会で生きているんだ、と感じたいだろうか。そうした歴史を踏まえたアイデンティティの持ち方を、今後とも尊重してもらいたいだろうか。

それとも、②「差別ってホントよくないですよね、だからそんな記憶や痕跡はぜんぶ消しておきました、私たちは初めから正しくてゴージャスで最高でキラキラした世界に居たんですうおおおおおDiversity!」な人に囲まれて、一切悩みのない世界のポスターとかに載ってみたいだろうか。

「負の記憶のない多様性」って、 なぜかみんな似たイメージに なりますよね。 マルクス史観があるだけマシかな?

まぁ、どうしても②がいいっていう人を、止められるかというと難しいんだけど、しかし彼ら彼女らが勝手にフィルムを削除してしまうようでは、①の人まで困っちゃいますよね。つまり、それは正当化しえない。

なにより「負の痕跡は全削除でOK! 私たちはゴージャス!!」な自意識って、対立しているはずの「俺たちアメリカは常にグレイトだったぜうおおおおお!」とも似てるっていうか、同じなんですな(苦笑)。

2015年の『反知性主義』の時点では、まだ見えにくかったそうした構図が、誰の目にもはっきりしたのが、トランプが返り咲きを争う2024年かなと。そんな風に現在を捉えることは、いま結構大事だと思う。

姉妹編の『不寛容論』も名著です。私の書評はこちらから

P.S.